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私とカウンセリング カウンセリングとは?[資料&語録編]その他の論文集リンク集


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CONTENTS
▼『友田不二男研究』収録・カウンセリングとの出会い
▼“ブライアンの真空”についての検討
▼友田不二男先生を偲んで


『友田不二男研究 〜日本人の日本人による日本人のためのカウンセリング〜』収録
第1章 カウンセリングとの出会い
文:山本伊知郎(2009年11月22日)


1.はじめに

 本書の冒頭に当たるこの部分は“人物紹介編”である。ここに紹介する「友田不二男」という人物は、そのキャリアの絶頂期においては、“日本のカウンセリング界でその名を知らない人は誰もなかった”くらいの人であり、また一部の人々からは“カウンセリングの神様”とも称されていた、いわば“日本のカウンセリング界のカリスマ的存在”だった人である。
 ところが時は流れ、時代は移り変わり、現在では同氏の存在とその業績は(ごく一部の熱烈な支持者たちを除けば)、すっかり忘れられてしまっているのが日本の現状である――と評しても過言ではない。とくに臨床心理学の世界においては、「ロジャーズを日本人に最初に紹介した人物」という程度の評価しか与えられていないのが現実である。あるいはカウンセラーを志して臨床心理学を学んでいる現在の若者たちの間では、ひょっとするとその名前すら知られてないかもしれない。
 “時の流れというもの”――これはある意味、“しかたがない”と観ずるより他ないのかもしれないが――によって、この人物をこのまま“風化させてしまう”のはあまりにももったいないし、残念だし、寂しい気がするのである。というような思いを抱いている同志たちの手によって、本書は計画され、出版されるに至った。
 さて、本章の概要であるが、「誕生からカウンセリング(ロジャーズ)との出会いを経て、やがて日本中にカウンセリングが広まってゆくきっかけを作り、その後はロジャーズと道を違えていった」ところまで、すなわち初期の頃を中心に取り上げている。内訳は、「父親の影響」、「学生時代」、「教員時代」、「教育相談時代」、「カウンセリングとの出会い」、「国学院大学へ」、「大甕ワークショップ」、「ロジャーズとの決別」と、全体を8つに区切って時代ごとに見出しを付けた。各時代の前半部分は事実関係と人物紹介を、後半部分はそこから浮かび上がってくる人物像や問題点などを取り上げ、それらをより明確にしようと試みている。
 なお、本稿で述べられている諸々のことは、あくまでも“筆者の視点から見た歴史的事実”であり、そこから“筆者に浮かび上がってきた問題”の提起とそれらに対する“筆者の現時点での仮説”である。したがって、これから先の記述は“客観的な事実ではない”だけでなく、不幸にして取り上げられなかった“事実”や“問題”なども少なからず残されているのは間違いない。
 もしも読者が“なんらかの疑問”や“物足りなさ”を感じたなら、読者自身がそれぞれの歩みによって探求し、さらに理解を深めていただけたらと思う。その際の“ガイドブック”として本稿がなんらかの役に立ってもらえたなら、「執筆の苦労も報われる」というのが現在の筆者の偽りない気持ちである。


2.父親の影響

 友田がカウンセリングを生業にしてゆく過程において、“父親の影響”を見過ごすことはできない。友田の父親は一言で言えば“問題のある人物”だったのだが、どのような人物だったのか、まずは大まかに紹介しよう。
 友田の父親は貧しい農家の生まれだったが、高等小学校卒業後すぐに准訓導(注:訓導とは、現行の教育法令でいう教諭と同等の職にあたる)となり、アルバイトをしながら師範学校を卒業した。卒業後は中等学校の教員を務めていたが、28歳のとき出身地(千葉県)から呼び戻されて小学校長に抜擢されたという経歴を持つ。これは当時としても異例中の異例で、決して“平凡な人物ではなかった”ことがわかる。
 通俗的には野心家でもあった。教員では飽き足らず、自分で童話の本を書いて出版したところ作品が大ヒットしたので教員を辞め、印刷所を買収して本格的に出版事業に乗り出したが、関東大震災による火災で印刷所が灰になってしまう。借金をして再び出版事業を始めたが、今度は震災後の世界的な不景気で本がまったく売れなくなり、その後は教員に逆戻りして、細々と詩や小説などを書き続けていた。晩年になって教壇から身をひいてからは、国史と郷土史の研究に専念した――という一面もあった。
 もうひとつの面、すなわち父親としては相当な“暴君”で、親戚中から狂人扱いされていた。これが友田に決定的な影響を与えた。
 夕食の時間、家族全員が食卓を前に父親を待っていると、30分後にようやく現われた父親が無言でいきなりちゃぶ台を蹴ってひっくり返すことなど日常茶飯だった。また、長男(友田の兄)をバットで何度も殴り付け、あと一撃が加わったら絶命していたかもしれない寸でのところで止めが入った――というエピソードもある。(※1
 “この父親”が存在する家庭に、1917(大正6)年11日、4人兄弟の末っ子として友田は生まれた。上に長女、長男、二男がいたので三男にあたる。余談になるが、「不二男」という名前は「二男ではない」という意味だったらしい。
 “この父親”の姿を見ながら育った少年時代の友田が、人間の“異常行動”や“不適応”の問題に強い関心を抱いたとしても、それはむしろ当然の成り行きだったと言えよう。が、それ以上に興味深いのは、家族中・親戚中から狂人扱いされていた“この父親”に対し、友田一人だけは異なった態度を示した点にある。本人の記述によると、

   この父には、周囲の者から“気違い”といわれるような行動がいくたびとなく繰り返されていた。そのような状態に陥っているときの父はまったく手に負えなかったが、不思議にも私が出動すると何とかおさまるのがつねであった。私には、周囲の他の人びとのように、父を異常者視したり、始末に負えないと見たりする気持ちがぜんぜん起こらず、苦悩し狂乱する父に、ほとんど言葉を発することもできずに寄り添うのが精一杯であった。今にして思えば、セラピストとしての私の修行は、この父との接触を通して、知らず知らずのうちになされていたともいえよう。(※2

と。また別のところでは、このあたりの事情について次のように記述している。

   このような父を持って、幾十許となく「戦々恟々」とした家庭生活を体験してきた私ですので、自分の家庭内には、このような状況は作り出すまいと心がけてはきております。しかし、私の中に「父の血」が流れていることは否定できないようで、機にふれ折につけて思うのは、「もしも私の父が、私のような生き方を心がけていたとしたら、私は、おそらく私の父のような姿でペンを執っていただろう」ということです。父は、幾度となく、錯乱状態に陥ったり、狂乱状態と言っても過言ではないような姿になっておりましたが、もしもそのような父の姿を知らずに育っていたら、おそらく私は、父のようになっていたことでしょう。(中略)
 私が「カウンセリング」――とくに、世のいわゆる「非指示的」もしくは「クライエント中心」の見地――に走ったゆえんは、世俗的に言えば「私の父」に、もっと正確に言えば「私の中に流れている父の血」に通ずることは、申すまでもありません。幾度となく狂乱状態・錯乱状態に陥っていた父に、家族はどれだけ悩まされていたことだったでしょうか!! 母は、幾度となく家を飛び出し、長兄は徹底的に抵抗しました。まったく、家族から一人の死者もなしに過ごすことができたのが、今でも不思議なくらいです。もっとも、殺されそうになれば、母や長兄は姿をくらましていたからでしょうし、「病死した次兄」の死を、心理的・精神的なレベルで言えば「殺された」と評することができないわけでもないでしょう。現に、一時は父の仕事を手伝ったりもしていた叔父・叔母など、「次兄の病死」について、父が殺したのも同然と評しておりました。しかし、もしもそのような言い方をすれば、この世の中にいったい「殺されない人間」がどれだけいることでしょうか? 「苦しまされ」「悩まされ」「ひどい仕打ちを受け」といったタイプの考え方や言い方を、私たちは、どれほど使っているかしれません。しかし、父に関して私は、かつて徹底的に非難したり攻撃したりすることが一度もできませんでした。ドシャ降りの夜中に、ドテラ姿で水田に横たわっている父の傍らに、ただ黙ってうずくまっていた子供の頃の自分の姿が、今また、私の脳裏にクッキリと浮かび上がってきます。誰がなんと言っても帰ろうとしなかった(らしい)母のところに、祖父に連れられて行って、何時間も黙ってジーッと座っていた子供の頃の自分の姿が、今でもハッキリと思い出されます。今にして思えば、「私のノンディレクティブ」は、子供の頃に体験的に身についていたのかもしれません。
 若かった頃の私は、母や長兄のように家出することができず、また、長兄のように反逆することのできない自分を、「意気地がないからである」と思い定めておりました。「気が小さい証拠」と決めつけておりました。「勇気がないからできないのだ」と考えておりました。「自分だけはこの父を見捨てまい」というのは、「もっともらしい口実ではないのか?」と、自問自答したりしたこともありました。それやこれらの「解決」を心理学に求めて、トコトンまで絶望したこともありました。(※3

 これらの記述には、じつに興味深い問題点がたくさん含まれているように思う。以下、多少の考察を加えてみよう。

<考察1>

 まず最初に、『私が「カウンセリング」に走ったゆえんは、世俗的に言えば「私の父」に、もっと正確に言えば「私の中に流れている父の血」に通ずることは、申すまでもありません』とは、どういう意味になるのか? という点である。
 ひとつの見方、極めて単純な“意識的レベルでの影響”のみを見る見方をするなら、『もしもこのような父の姿を知らずに育っていたら、おそらく私は、父のようになっていたことでしょう』とあるように、「父親を反面教師にした」、すなわち「自分は父親のようになるまいと思った」がゆえに心理学に走った――と言えよう。
 もうひとつの見方として、“宿命論”的な見方もできる。「私の中に流れている父の血」というのを、「私が生まれつき背負っている宿命」という意味に解する見方だ。というのも、父親が生涯を通じて歩んだ道のりや全体的傾向と友田のそれとを比較すると、奇妙なぐらいに符合しているという事実があるのだ。友田の記述によると、

   私の父には、およそ、利害損得の打算や地位・名声への欲望がなかった、と言ってよいでしょう。いかに昔のこととは言え、20才代の若さで小学校長に抜擢されたのは、まったく異例のことだったようです。それは丁度、私が、20才代の若さで、当時で言えば専門学校、今で言えば新制大学の「教授に任」ぜられたのと符合する、と言ってもよいでしょう。父は、県がてこずっていた町の小学校長を、ともかくも立派に勤め上げて、県下随一の、千葉市内の小学校に栄転したわけですが、それは、私が、母校に帰って「東京高等師範学校助教授」になった事実と符合しますし、それにもかかわらず、父がハタ目のうらやましがるポスト――世のいわゆる「出世街道」――をポンと投げ飛ばして、私立の、当時の成田中学校に転じたように、私もまた、国学院に出てしまっております。そして、父が「童話の執筆」に力を傾けていたように、私は「カウンセリング」に微力を傾けているわけです。現在はともかくとして、当時で言えば、ともかくも「日本の教育界の大本山」と言われていた学校のポストを投げ飛ばして。表面的な違いはともかくとして、基本的には、なんとよく類似している人生過程でしょうか!!(※3

となる。このような見方からすると、友田に流れていた“父親から受け継いだ血”、もしくは“宿命とも呼ぶことができる何か”が、友田をして、心理学やカウンセリングへと走らせたのではあるまいか? と思えてくるのである。

<考察2>

 もうひとつの論点は、父親が関連するこれらの体験と(ロジャーズが開拓した方向の)カウンセリングとが、どのように結びついているのか? という問題である。
 『父に関して私は、かつて徹底的に非難したり攻撃したりすることが一度もできませんでした。ドシャ降りの夜中に、ドテラ姿で水田に横たわっている父の傍らに、ただ黙ってうずくまっていた』、『誰がなんと言っても帰ろうとしなかった母のところに、祖父に連れられて行って、何時間も黙ってジーッと座っていた』というエピソードにおける少年時代の友田の姿からは、“ロジャーズの3条件を、まさに体現しているセラピストの姿が連想される”と言ったら、それは少し言い過ぎだろうか? 少なくとも筆者には、『今にして思えば、「私のノンディレクティブ」は、子供の頃に体験的に身についていたのかもしれません』という言い方には十分うなずける。
 ただし、この当時すでに「ノンディレクティブを可能にする“基本的な人間観”をも身に付けていたのか?」となると疑問の余地はあるだろう。“身に付ける”という言葉の意味があいまいではあるが、少なくとも「概念化してなかった」のは間違いない。根拠のひとつは、『若かった頃の私は、母や長兄のように家出することができず、また、長兄のように反逆することのできない自分を、「意気地がないからである」と思い定めておりました。「気が小さい証拠」と決めつけておりました。「勇気がないからできないのだ」と考えておりました。「自分だけはこの父を見捨てまい」というのは、「もっともらしい口実ではないのか?」と、自問自答したりしたこともありました』という記述である。
 “ノンディレクティブを可能にする基本的な人間観”から言えば、“父親に対して非難することも反抗することもできなかった”だけでなく、むしろ“従順だった”のは、ロジャーズの言う“受容”とか“無条件の肯定的配慮の経験”だったと言ってよいだろうが、友田少年はそのような肯定的な思い方はしていない。“人間観”はそこまで育っていなかったわけだ。
 にもかかわらず、行為としては“ノンディレクティブをやれている”し、のみならず功を奏しているのは、どういうわけだろうか? 事実として「友田一人だけが、周囲の人々とはまったく異なる態度を父親に示した」というところに、友田という人間の“本質的な何か”があるように思えるのだが、その“何か”とは何か? という問題だ。
 結論から先に言えば、「友田がそういう人だった」ということであり、「それ以上はよくわからない」となるだろう。が、あるいはひょっとすると、人間存在の根源的な悲しさ――“性”とか“血”とか“宿命”とか呼ばれるもの――を、意識的にではないにせよ、少年時代に父親から観じていたのかもしれない。ゆえに『父を異常者視したり、始末に負えないと見たりする気持ちがぜんぜん起こらなかった』のではないか? あるいは、少なくとも父親との関係において“お互いに通じ合うような何か”があったのだろうということは、想像に難くない。そしてその“通じ合う”は、決して意識レベルではなく、“父の血”と“私の血”という二つの血が共鳴し交流するというレベルでの“通じ合う”ではなかっただろうか? と想像できるのである。
 上述したのはあくまでも想像であり、単なる“理屈付け”に過ぎないかもしれない。仮にそうだったとしても、「人と人とが、“意識レベル”ではなく、“血のレベル”において通じ合う」という考え方は、さらに一般化すれば、「人と人とが、カウンセリング過程を生み出すことを可能にする“何か”は何か?」という本質的な大問題にも関連してくるだろう。
 そのような意味において、“この問題”は、カウンセリングというものに取り組んでいる人々にとっては、極めて重大な問題提起になり得るだろうと思う。


3.学生時代

 小学校低学年の頃、父親の転勤により千葉県の片田舎に引っ越した影響で、それまで一緒に遊んでいた友だちがいなくなり、本人曰く「他にすることがなかったから」ということで、自宅で兄の教科書を片っ端から読み漁っていた時期があった。その行為が母親に見つかってこっぴどく叱られたりもしたが、そのせいもあって小学校では“わからない問題”が何ひとつ無かったという。教壇に立った先生が生徒たちに向かって何か質問すると、友田少年が真っ先に正解を答えてしまうので授業にならず、「お前はじゃまだから廊下に立っていろ!」と教室から追い出されたというエピソードもある。子ども時代はそれくらい優等生だったようだ。
 旧制中学時代は、『論語』、『孟子』等の漢文(中国の古典)に強い興味と関心を持った。どういうわけだか理由はわからないが、とにかく強い関心をかきたてられたという。これはのちに“カウンセリングの真髄を東洋思想(とくに中国の古典)に求めていく”ことと結びつく原点だったと思うが、友田はこのあたりの事情について、

   私が横文字から離れて漢文に走っている背景には、“何かそうなってゆく宿命”というのですか、当面の言葉で言えば“友田不二男の吾”――つまり、“その人間を根底的に規定している吾”をハッキリと感じさせられるのです。端的に言えば、“この一人の人間を根源的に規定している吾”は、漢文から離れないように、漢文から離れることができないように、なってしまっているんですよね。(※4

と語っている。だとすると「友田不二男の“吾”は、その徴候をすでにこの時代に現わしていた」ということになるだろうか?
 旧制中学時代の有名なエピソードとして、「夏目漱石の『吾輩は猫である』の猫に最後まで名前が付かなかったのを問題にした」というのもある。友田少年は「どんな名前が付くのかを楽しみに」しながら作品を読み進めていったところ、結局最後まで名前が付かなかったので“肩透かしを食らった”ような気持ちになり、憤りさえ感じたという。そして「どうして名前が付かないのだ!」と、中学校の先生に食って掛かったというのだ。
 この問題は、数10年後に『老子』第一章(道可道、非常道。名可名、非常名)と出会ったときに氷解したわけだが、ここにも「友田不二男の“吾”が、その徴候を現わしている」と言ってよいだろう。
 旧制中学卒業後は、父親の「校長になるためには高等師範学校へ行かねばダメだ」という提言に従って高等師範学校へ進学した。時代背景として、当時は大正末期から昭和初期にかけての世界的な大不況のさなかであった。“大学は出たけど職がない”という時代に“卒業後の就職が保証されている官費の学校”は、当時は世の人々の憧れの的であり、それが高等師範学校を選択した大きな理由だった。
 余談になるかもしれないが、友田はずいぶん長い間――すなわち、カウンセリングと出会うまでの間――、人生における分岐点において、その都度父親と相談しながら自分の進路を決めていたようだ。周囲の人々には“狂人扱い”されていた人物だが、友田にとっては“良き相談相手だった”ことがうかがえる。
 高等師範学校卒業後は、そのままエスカレーター式に東京文理科大学教育学科へ進学し、心理学を専攻した。心理学を専攻した動機はすでに述べたが、“父親の影響”だった。そんなわけで、きわめて明確な動機に基づいていた友田は、大学生になると同時に心理学を猛勉強した。が、その行為の結果は1年半後に“挫折”となって返ってきた。本人の記述によると、

   大学で心理学を専攻し、“感情”の問題を取り上げた私は、私に意識に即していえば“惨敗”であった。人間のいっさいの行動の基盤は“感情にある”という考え方を堅持していた学生時代の私は、心理学の領域になんの希望も見いだせなかった。(※5
 1年半やった時に、ふっと目が覚めた、と言いますか、もう心理学のくだらなさというものにつくづく嫌気が差して、なんでこんな学科を選んだのだろう。ひとつも自分の納得することなんかありゃしない、と思いました。当時、読める限りの本を読んだのですが、ひとつとしてこちらの納得のいくようなものがない。(※6

となる。すっかりやる気を失った友田はその後、囲碁を打ったり麻雀をやったりで遊びほうけていたが、母親から涙ながらに「頼むから卒業だけはしてくれ」と懇願され、しかたなしに卒業論文を書き上げた。その卒論でテーマにしたのは、“ヒューマン・リレーションシップ(人間関係)”論だった。
 参考になる文献は当時ほとんど無かったが、3ヵ月間不眠不休のような状態でがむしゃらにやって、とにかく分厚い論文を提出したところ、口頭試問で担当教授から「お前は3年間心理学をやっていながら、心理学の方法論もわかってないではないか!」とやられた。友田はこれに応戦し、「方法論を知らないなどと言われては心外である。現在の心理学における方法論でもって、いったい人間の何が出てくるというのか!」と持論を展開したところ、「それだけ言えるのなら、まあよかろう」ということで卒業させてもらえたという。(※6

<考察>

 大学生時代の友田を一言で表現するなら、「心理学というものに絶望した」となるだろうが、これはいったいどういうことなのか? ということをより明確にしていきたいと思う。というのは、もしも同時代に心理学を専攻した学生の大半が友田と同様に「絶望した」のなら、そこに疑問の余地はない(つまり、客観的にも“心理学は絶望を経験するに値する程度の学問である”ということになる)が、これは友田という人特有の経験だったに違いないと思うからだ。
 最初に気がつくのは、『人間のいっさいの行動の基盤は“感情にある”という考え方を、大学生時代にはすでに持っていた』という、この考え方に対する“強いこだわり”だ。もしもこれがなければ“心理学に絶望する”必要はなかった(すなわち、持論を放棄して既存の心理学説を受け入れた)であろうから、この“強いこだわり”を形成していったプロセスは何だったのだろうか? ということが気になる。
 筆者が最大限の想像力を駆使したところで言うなら、友田が断固として保持していた上述の考え方は、“単なる思いつき”ではなく、長い年月をかけて積み重ねられた数々の“体験的事実”と、それらによって育まれた“人間観”によって熟成された結果、生み出されたものではなかろうか? ということである。
 無論、この考え方を生み出すうえで最も大きな影響を与えたのは“父親”だっただろうが、その父親が存在する環境下において、その父親から“人間というもの”を体験的に学習し、また洞察していった友田自身の力も見逃してはなるまい。比喩的な言い方をすれば、この考え方は、「友田自身の血と汗と涙の結晶だった」のである。だとしたら、当時の心理学に持論を支持するような学説が存在していなかったからといって、ただそれだけでそれを放棄することなど、どうしてできよう? できるはずがなかったのは、むしろ当然だったのではないか?
 このことは、友田の次の言葉でも示されている。

   私は、父のいわゆる異常行動を通して、また、心理学の無力さを痛感することによって、人間にはどうすることもできない人間の感情を、体験的にも知識的にも、痛感させられている状況で大学を卒業したのであった。(※5

 なお、『人間のいっさいの行動の基盤は“感情にある”という考え方を、大学生時代にはすでに持っていた』という文章だけ読むと、読者の中には「ロジャーズと同程度の洞察力、もしくは“先見の明”を持っていた人だったのだな」という印象を持つ人もいるかもしれない。このような思い方が「間違いである」とはぜんぜん思わないが、ロジャーズにせよ友田にせよ、上述の考え方を保持するに至るまでの(臨床経験を含めた)血のにじむような努力のプロセスが背景にあったことを忘れてはなるまい。ロジャーズのプロセスについては筆者はよく知らないが、少なくとも両者とも「単なる思いつきの天才ではなかった」ことは、肝に銘じておく必要があるだろうと思う。
 しかしながら、これだけで“持論に対する強いこだわり”のすべてが説明でき、明確にできるとはどうも思えない。上述した背景を十分考慮に入れたとしても、なお「心理学を“くだらない!”と断じるほどまでに“自分の経験”や“その経験から学んだ過程で生まれた自分の考え方”を価値付けることができ、しかもその価値基準に基づいて行為できるという自尊心の強い人間」とは――きわめて稀だと思うが――いったい何者だろうか? という疑問が残る。
 ロジャーズの立場におけるカウンセリングが最終的に目指している方向が、“権威主義からの脱却と解放”――すなわち“自分自身になってゆくプロセス”――にあることは、あらためて言うまでもないだろう。そしてこのことが本当に理解できる人ならば、現実的にはいかに容易に人が“権威主義に陥りやすいものであるか”ということ、すなわち“自分自身の経験から学ぶということを放棄して、既成の観念や概念、既存の学説等を信じ込みやすいものであるか”ということを、痛感していることだろう。
 このような観点から見た場合、友田という人がこの“経験を信頼し、最高度に価値付ける”という稀な特質(これはロジャーズにも見られるし、さらに一般化すれば、“開拓者”とか“創始者”と称される人物には共通して見られると思う)を、本質的に持っていたのは間違いない。詳細は後述するが、“カウンセリングと出会った”際にもこの本質は発揮され、機能するのである。
 このような特質を持った人物は、一面からすると「自己中心的だ」とか「わがままだ」とか「頑固一徹だ」というふうに見なされやすいが、友田も例外ではなかった。友田を評して「誤解される名人」と表現した人もいたほどだ。世間や周囲の人々からそのように“見なされてしまう”のも(父親がそうだったように)、これまた“父親譲りの血”に因るのだろうか?


4.教員時代

 大学卒業後は、埼玉県女子師範学校(現在の埼玉大学。小学校教員を養成していた)に心理学を教授する教諭として赴任した。本人の心情から言えば「心理学というものにつくづく嫌気が差していた」のだが、この当時、官費の学校を出た者には“卒業後に教職に就く義務年限”が課せられており、国家の命による辞令には従うより他なかったという。
 そしてここでも、友田は早々に“挫折を経験”した。以下は本人の記述である。

   当時の埼玉県女子師範学校の教壇に立って心理学の講義をすることになった私は、夏休みになるまでの1学期間で、“講義”を打ち切らずにはいられなくなってしまった。あちらこちらで居眠りしている生徒たち。泥人形のようなドローンとした生徒たちの目、目、目。そして案の定、すこぶるできの悪い期末試験の答案。私は、それをどうすることもできないおのれの無力さと講義の無意味さを、いやというほど実感させられ、なんの対策もないままに9月の2学期がはじまってからは、心理学の時間になると、生徒を付属幼稚園に連れていって子どもたちと遊ばせたのだった。そして、“お遊びの時間”が終わって子どもたちが引き上げた後のこちらの残された時間を使い、生徒たちは、いろいろとディスカッションしたり、心理学書などについて検討すべき課題を設定したりしたのであった。今にして思えば、これこそ、ロジャーズのいわゆる“学生中心の教授”に通ずるものであったし、ロジャーズたちが、ユニオン神学校在学時代に学校当局に要請したことにも通ずるものであった、といってよかろう。(※5

 わずか1学期間で、講師という仕事(=講義すること)に対する“挫折を経験”しているのである。この経験が「何を意味しているのか?」については、あとで考察を加えていくことにしよう。そして友田が半ば“やけくそ”で行なった生徒たちとの取り組みは、その後、思わぬ方向へと展開していった。

   この私のふるまいが校長の耳に入り、私は校長室に呼びつけられた。しかし、なんと、私は、私の予想と覚悟に反して、校長から絶賛され激励されたのである。“それがほんとうの教育なのだ”、“文部省から研究費をとってやろう。しっかり取り組んで体系化してみたまえ”――その校長の言葉は、私にはほとんど信じられないくらいであったが、間もなく私は、今の金にすれば10万円相当の研究費を手交されたのであった。もしも、“召集令状”がこなかったら、私は、あるいはその研究費で、日本における教員養成のカリキュラムに新機軸を打ち出していたかもしれないし、いわゆる“学生中心の教授”を創唱していたかもしれない。もっとも、当時の私の真相は、母校に足を運んで文献をあさっても、ぜんぜん手掛りが得られず、恩師に問うてもなんの成果も得られず、さりとて貧弱な私の頭脳からは何ひとつ生み出せない悪戦苦闘から私を救ってくれたのが、この“召集令状”であったのであるが。(※7

 この“召集令状(俗にいう赤紙)”は、このときの友田にとってはまさに“救いの神”だった。「シメシメ」と思って赤紙を校長に見せ、「残念ですが時間がありませんので」と研究費を全額返納した。そして“喜び勇んで”軍隊に入隊したという。
 戦時中の数年間、軍隊時代に関しては、“表面的には”カウンセリングと関連付けることができないかもしれないが、友田という人物の“真相を知る”うえでは重要な手掛かりになり得るだろうと思われるので、とくに有名なエピソードを少しだけ紹介しておこう。
 軍隊に入隊した友田は、上述の“悪戦苦闘から解放された”ことも手伝って、軍事訓練(通常は数ヵ月で除隊できる初歩的なものだった)に張り切って臨んだところ、上官から軍人としての才能と資質を見込まれてしまい、訓練期間を終えると即座に今度は幹部候補生として、引き続き野戦砲兵学校での訓練を強いられた。本人はこの決定に不服だったので抵抗した(試験問題にデタラメな答案をして提出した)が、最終的には父親が本人に代わって書類にサインし、判を押してしまったという。
 そこでの訓練を終えたあと、砲兵部隊の将校として広島に配属されたが、勤務態度が不真面目だった(戦場――すなわち兵隊にとっての職場――は、当然のことながら“24時間営業”であるが、友田は定められた職務を放棄して、毎晩妻と暮らしていた自宅に帰っていた)ために九州の山奥に左遷され、そのおかげで“原爆から逃れられた”のである。本人の記述によると、

   そして“第二の幸運”は第二次世界大戦の末期、“広島に世界最初の原子爆弾が落された時”、その時にやって参りました。世俗的に言えば“拗ねに拗ね、抵抗に抵抗を重ねて反軍的言動に走っていた私”は、突然単身で“九州の山奥・僻地へと左遷されてしまった”のでした。“この左遷”がやがて第二の命拾いになろうとは!! 身辺・周囲の誰が見通していたことでしょう。端的に言えば私は、左遷されたお陰でただ一人、一コ連隊中に在って私だけが生き残った次第です。(中略)世俗的な善悪を越えた次元で、私の人生における“第二の幸運”があったのでした。(※8

となるが、“この体験”はカウンセリングというよりも、むしろ後に“東洋思想へと傾倒していった”ことと、強く結び付いているように思う。なお、ここで問題となる“幸運というもの”については後述する。

<考察>

 教員時代の友田を一言で表現するなら、「“講義すること”への挫折を経験し、と同時に“講義すること”への疑問を抱いた」となるであろう。“この経験”と“この疑問”は、いったい何を意味するのだろうか? 思い切った言い方をすれば、ここのところには、「“教育というもの”、及び“カウンセリングというもの”に取り組んでいく先覚者としての資質の一端が示されている」のではなかろうか?
 というのは、このときの痛烈な経験(講義を始めると生徒たちが居眠りした)が基にあって、その後の友田の中核をなす人間観――すなわち、「人間は本来学習者であって、被教育者に生まれついた人など存在しない」――が信条・信念として育成され強固なものになっていった、と見ることができるからだ。
 さらに言えば、“この経験”と“この疑問”は、国学院大学で生徒たちに対して行なった“講義をしない教育場面作り”や、カウンセリング・ワークショップでの“場面構成”などの実践においても、いわば原体験として、結び付いていただろうと思われるのである。
 教員時代は、(ロジャーズが開拓した方向の)カウンセリングを実践・探求していくカウンセラー友田が生み出され、成長・発展していったプロセス全体から見ると、その原動力となる“きわめて重要な経験を蓄積した時期だった”と言えるだろう。
 そしてこのような見方からすれば、友田自身が述べている『もしも、“召集令状”がこなかったら、私は、あるいはその研究費で、日本における教員養成のカリキュラムに新機軸を打ち出していたかもしれないし、いわゆる“学生中心の教授”を創唱していたかもしれない』という記述も、決して大袈裟な言い方ではないように思えてくる。


5.教育相談時代

 終戦後は、元の職場(埼玉師範学校)に戻ってしばらくの間教員生活を送った。終戦直後で「心理学など教える気にはとてもなれなかった」友田が、辞表を提出しに埼玉県師範学校(戦時中に専門学校に昇格し、男子師範学校と女子師範学校が統合され、それぞれ“男子部”、“女子部”と呼ばれるようになっていた)を訪れたところ、「いいところに帰ってきた。男子部に心理学の担任がいなくて困っていたんだ。君、さっそく男子部に行ってくれ!」と懇願され、当初は拒んだが、結局最終的には父親に説得されて復帰する成り行きとなった。
 軍隊帰りで勇ましかったからなのか、友田はここで教員組合の委員長に選出され、校長や庶務部長などをつるし上げるなどして相当暴れたという。が、いつの間にか自分が軍隊時代の将校のような姿になっているのにふと気づき、ファッシズムに走ってしまう自分自身がやりきれなくなったのと、そうなってしまう構造を生み出していた教員たちの世界にほとほと嫌気が差して辞表を提出した。しかし、辞表はなかなか受理されず、「辞めさせたくない」学校側と揉めていたところ、この動向を伝え聞いて知ったらしい母校(東京文理科大学)から、「人手が足りなくて困っているからウチに来てくれ!」と誘いがきた。
 ここでも友田は「心理学も教職もまっぴらごめんだ!」と突っぱねたが、大学生時代の恩師の助手をやっていた人物が自宅までやってきて懇願し、それを聞いた父親の「とにかく恩師がそこまで言うのだから、お前いったん行ってこい!」という言葉に説得されて、母校に戻るという成り行きとなった。(※9
 東京文理科大学に戻った友田は、教育相談を担当した(東京文理科大学教育相談部の主任となった)が、最終的には大学での仕事に完全に失望した。“教育相談”以外にも“知能検査”や、文部省の委嘱による“進学適性検査”の問題作成、労働省の委嘱による“職務分析”などを行なっていたが、2年ほどやっているうちに担当していた仕事がどれも行き詰ってしまい、身動きがつかない状態に陥っていった。なかでも“教育相談”は、友田に“決定的な挫折と失望”を経験させた。少し長くなるが本人の記述によると、

   教育相談というのは、母親なり教師なりが子どもを連れてやって来る。当時のことですから週に23人しか来なかったのですが、私はまず相談にみえる子どもの知能検査をやる。性格検査もやり、次の週までにそれをすっかり整理しておいて、母親なり先生なりと話し合うわけです。たとえば母親が来た時に検査結果に基づいて、“お宅のお子さんはこれこれこうでこういうふうですから、こういうお子さんはこんなふうに扱って、こういうふうに指導して”と、順次に話していました。母親はその時はたいてい感心して帰るのですが、一度、“心理学者って占い師なんですか”と言われたこともあります。まず感心して帰ってゆく。
 ところが次の週に来ると、“じつはこの前先生がこんなふうに言われたから、子どもをこんなふうに扱ってみたら、子どもがこんなことやりだすんですよ”などということから始まります。そこで私が“お母さん、そういう時には、子どもというのはこういうふうなんだ。そういうことをしたらこういうふうな観方をしなくちゃいけないんだ”と言うと、“ああ、そう言われればそうですね。私はまだダメですね。考え方が足りなかった”と言って帰ってゆく。
 次の週が来るともういけない。“先生、最初はこう言って、その次の週はこう言ったから、今度はこうやったら、余計どうしようもないんです”、“そういう時は、こうやるんだ”と押し問答をやって、とどのつまりは“先生は机に向かったままで言っているからいいけど、家に来て明け暮れこの子どもと一緒に生活してごらんなさい”とくる。まあ結局、表面上体裁いいこと言っていても、実際はケンカ別れみたいになって帰ってしまう。私の下にもう2人助手がいたのですが、“あのおふくろじゃあ無理ないね。子どもがあんなになるのも”などと、3人で憂さを晴らして終わってしまうのが関の山でした。(※10

 こんな具合で、“教育相談というもの”に完全に行き詰まり、と同時に疑問を感じた友田は、「先達がどのような考え方で教育相談に取り組んでいたのか?」を克明にするために徹底的な調査を開始した。

   そこで最初に私の下にいた2人の助手に話をして、“とにかく今まで教育相談をやった人は、どんな考えを持って、どんな意見を持ってやってきたか、全部調べようじゃないか”と、図書室にある文献の教育相談に関するものを全部拾い出しました。片っ端から読み漁って結論を整理しました。その結論というのを一言でまとめると、――教育相談というのは、あくまでも相談である。担当者は科学的な根拠に基づいて、誤りのない指示と助言を与えればよい。その指示と助言に誤りがあるかないか、ということは担当者の責任であるが、その指示を忠実に履行するかしないかは向こうの責任であって担当者の責任ではない――というところに、それまで漁った文献の結論が全部結びついていってしまう。これを見たとたんに、私は“やめた!”と思いました。もうこんりんざい心理学はやるまい、と思ったのです。
 これがもし医者の世界だったらどうだろう。科学的に診断して、盲腸炎だということになると、“さあ、メスを持ってきなさい。お腹はこう切るんですよ。血管はこう止めるんですよ”と母親なり父親なり学校の先生なりに教える。けれど母親は手が震えて子どもの腹を切れないでいる。そして子どもが死んでしまったら、“あのとき教えた通りにやらなかったのだから、そっちの責任だ。死んだのはこっちの責任じゃない”と、そのようなことを医者が言えるだろうか?(中略)そして“俺はもう辞める。これとこれはちゃんと整理して君たちに渡すから”と、2人の助手に宣言して残務整理を始めたのです。(※11

という顛末で、友田は東京文理科大学を辞職することを決意したのだった。

<考察1>

 この時代の友田を一言で表現するなら、「“教育相談という仕事”への挫折を経験し、と同時に“教育相談という仕事”への疑問を抱いた」となるであろう。教員時代は“講義すること”への疑問を抱き、ここでは“教育相談”(=指示的アプローチ)に失敗しているというわけだ。これは何を意味するのだろうか?
 一面的・表面的な見方をするならば、これらの事実は、「ロジャーズらの立場からすれば、いたって当然のことである」と単純に結論付けられるかもしれない。しかし、もしもそうだとしたら――つまり「誰が行なっても“伝統的な古い技法”によるアプローチは失敗するのが当然の結果である」としたら――、そんなものはロジャーズが登場するもっとずっと以前に改められ、現存しているはずがなかったであろう。したがって、“伝統的な古い技法”はこの当時(あるいは現在も?)、世の大半の人々によって支持・承認されていただけでなく、なんらかの成果も上げていたに違いないと思われるのである。
 だとするとこれは、ロジャーズという“人”、そして友田という“人”に、“伝統的な古い技法”では行き詰まってしまう“何か”があるのではないか? というふうに考えざるを得ない。換言すれば、“技法と人間”――技法とその技法を使う人間とがいかに密着しているか――という問題が提起されてこよう。
 “この問題”は、カウンセリングに従事する者だけでなく、人間すべてに通ずる大問題だとも思うが、友田は“この問題”を著作の中でも提起している。

   まず第一に申し上げておきたいことは、「非指示的」ということとは関係なしに一般的に、「技術」とか「方法」とかいう言葉を使用する場合、多くの人々がきわめて簡単に、もしくは安易に、「人間を抜きにしてしまう」ということです。しかし、それにもかかわらず、「人間を抜きにしたところ」には、今日なお、いかなる分野のいかなる「技術」も「方法」も存在し得ない、ということです。なるほど、わたくしども人間は、科学を発達させることによって、いわゆる「科学的技術」もしくは「科学的方法」から、できるかぎり「人間を排除する」ことを念願し企てつつあります。しかし、「念願し企てつつある」ということは、それがすでに「達成されている」ということでは決してありません。今日なお、どのような「科学的技術」も、いかなる「科学的方法」も、依然として「人間を抜きにして」は存在していないのであります。のみならず、「科学的技術や方法」が科学化されればされるほど、それに関与する人間の知性化と高度化が要求され要請されているのが、現実の事実でありましょう。(※12

 この記述は『非指示的療法』(日本カウンセリング・センター 1963年初版)の中で“この問題”を取り上げている部分のイントロダクションであるが、筆者の個人的感想を述べるなら、「量子力学の世界における“観測問題”にもつながる大問題を、カウンセリングの立場から提起している」のである。なお、“この問題”に関する論文をここに全文掲載することはできないので、関心がある読者は上記の著作などを読んでいただけたらと思う。

<考察2>

 もうひとつの論点として、友田という人は「体験的事実をわいきょくしたり合理化したりせず、そのまま意識化し言語化する」という特質を持った人物ではなかったか? という一面が浮かび上がってくる。
 一般的に言って失敗や挫折を味わったとき、人がいかに容易にもしくは安易にそれらの経験に対して「自分を納得させる理由付けを行なってしまうか」は、いまさらここで論じるまでもない。もしも友田が、仮にそのような処理の仕方をしていたならば、“心理学というもの”や“講義するということ”、そしてまた“教育相談というもの(指示的アプローチ)”に対する“疑問”など、生まれる余地がなかったことは容易に想像できる。“疑問”が生じなければ、“新しい方向へと開拓してゆく”こともまた不可能である。筆者は「この特質こそ学習者の基本的な特質である」と思っているのだが、そのような意味において、友田という人が本質的に“学習者であった”のは間違いないだろう。
 禅に“背覚”・“正覚”という言葉があるが、“己の覚に背くか否か”は、人間が学習者――ここで言う学習者とは、「疑問を持ったらその疑問に対する自分なりの仮説を立て、その仮説を検証しようと努力する行為がとれる人間」という意味だが――に育ってゆけるか否か、という問題と密接に関連しているように思えてくる。


6.カウンセリングとの出会い

 上述したような成り行きで、「辞職することを決意した」ちょうどその頃、友田の人生における一大転機をもたらした“カウンセリングとの出会い”があった。じつにタイミングよく、“幸運の女神”が訪れて来たのだった。
 少し脱線するが、筆者はここのところで『十牛図』の第一図“尋牛”を連想する。「求め求めて人事の限りを尽くしたところで最後には行き倒れると、その倒れた眼前に牛の足跡を発見する(第二図“見跡”に至る)」というのが禅の有名な書物にあるのだが、ここに至るまでのプロセスをそのように見ることもできそうだ。
 さて、では“どんなふうにして”カウンセリングと出会ったのか、友田自身の記述を紹介しよう。

   私ども東京文理科大学心理学教室の関係者は、シカゴ大学で心理学を専攻して茨城キリスト教大学にきたローガン・フォックス氏を呼び、私どもにはぜんぜんわからない戦時中から戦後にかけてのアメリカの心理学会の状況を聞くことになった。心理学に絶望していた私は、もちろん熱心な聞き手ではなかったが、ローガンさんの話が“カウンセリング”に及び、しかもそれが日本で“児童相談”とか“教育相談”とか、あるいは“職業相談”とかいう言葉で呼ばれている仕事であることがわかるにつれて、私は、一言半句聞きもらさないぞという“構え”になっていた。その“構え”は、真実へとアプローチするというよりははるかに、話の盲点もしくは弱点をえぐり、ちょっとのスキがあれば切り込んでやろう、という性質の“構え”であった。
 ローガンさんの話が終わってからの、彼と私とのディスカッションは、公式の席を閉じた後の懇親会の席上までつづいた。それに終止符を打った、というよりはむしろ、一時的な休戦を宣したのは、ローガンさんの次のような意味の言葉であった。“あなた(つまり私)が言われることはまったくもっともであり、アメリカでもさんざん議論されていることである。そして今、アメリカには、それを発展させた新しい立場が生まれている。今日はその本を持ってこなかったが、家に帰ればある。あなただったらきっと、その本に書いてあることがわかるだろうから、貸してあげよう。この先のディスカッションは、その本を読んでからにしよう”と。
 さっそく私は、その本を借りに大甕を訪れた。というと、いかにも熱心であったように聞こえるであろうが、当時の私には、“本を借りにゆく”という大義名分のもとに堂々と勤務を休めるという意識しかなかったのである。しかし、その後“カウンセリング”の経験を通してわかってきたところから解釈すると、そのときの私は、多くのクライエントたちと同じように、自分ではぜんぜん意識せずに、また、意識されている理由づけとはぜんぜん別に、ローガンさんに会うことそのことが真の目的であったのかもしれないのである。
 今とは異なり、戦後のよごれきった、疲れきった、薄暗い列車の一隅に身をゆだねた私は、帰路のつれづれを、借りてきたばかりのロジャーズの著書(『Counseling and Psychotherapy1942年)でまぎらわしはじめた。しかし、つれづれをまぎらわすどころではなく、夢中になって読みふけるまでに、そう長い時間を必要とはしなかった。私の脳裏には、次のような意識が間断なく去来していたことを、私は今でもはっきりと記憶している。
(1)この本は、今までの心理学書とはぜんぜん違うぞ。
(2)この本には、ほんとうのことが書いてあるぞ。
(3)この本には、生きている人間が生きているままに写しだされているぞ。
 もっともらしい説明や解釈ばかり――と、当時の私は思っていた――の心理学書。“科学”を誇称しながら、その実、科学的な根拠のまったく浅い――と、当時の私は思っていた――心理学。そのような心理学書とはまったく趣を異にし、真っ正面からそのような心理学に挑戦しているこの本を、私は、その後1週間、文字通り夢中になって読みふけり、読み終わったときには、“心理学から足を洗うのはもう、自分にはいつでもできるのだ”、“足を洗う前に、とにかく一応これを確かめてみよう”、“確かにこれは、確かめてみるだけの価値がある”という思いに、私はつつまれていたのであった。(※7

 といった成り行きでカウンセリング(ロジャーズ)と出会った友田は、大学に残って試験的にカウンセリングを実践しはじめた。

   当時、原書を購入することはほとんど不可能であったが、幸いにもツテがあってこの原書を入手し、この本1冊を頼りに、クライエントたちとの接触をはじめた。その経験は、それまでの相談場面の実際とは、まったく異質といっても過言ではない経験であった。私は、2年間の試行期間を経て、この方向からの人間へのアプローチに、“とにかく10年間、自分を賭けよう”と決心したのであった。もちろん、その決心について私は、何人かの恩師・先輩を訪れた。しかし、私の言語化された経験を信用してくれた人はひとりもなかったし、いうまでもなく善意と好意によってではあるが、まっこうから私に反対し、私の決心をひるがえさせようとした人もあった。しかし、そのような周囲の動きや考え方や批判は、私の決心にとってなんの力も意味ももち得なかったのであった。(※13

 周囲の反対を押し切って、友田は“カウンセリングに己を賭ける”決心をした。ここに日本人初のロジャーズ派の臨床家(カウンセラー)が誕生したのである。

<考察1

 ローガン・フォックス氏と出会い、同氏を介してロジャーズと出会ったという事実は、「きわめて幸運だった」と言うより他ない。がしかし、「友田というのは幸運に恵まれた男だったのだ」という一言で、片付けてしまってよいのであろうか? その「幸運とは何か?」という問題にはいっさい触れずに。
 幸運とは何か?――これは言うまでもなく、現代科学のレベルでは未だ解明されるに至ってない問題のひとつである。友田自身は「友田不二男と名乗るこの男は、私に自己評価させれば実に実に運のよい男であります。よほど“よい星の下”に生まれついているのでしょう」(※14)と語ったうえで、“幸運というもの”について次のように論じている。

   このような場合、人間は、今日なお、「幸運」という以外の言葉を使いようがない。しかし、「幸運」とはいったい何なのか? 人間が、現に、その「幸運」にめぐり合うことそのことを現実化するところに、なんらの必然性もないのであろうか?――というような問題は、貧困な頭脳で、いくら思いめぐらしても、しょせんどうなることでもあるまいが、しかしとにかく、発見・発明・飛躍といったようなことには、何かしら人間そのものをも包含した巨大な大自然の法則が潜んでいることを、私はどうしても、感じないわけにはゆかないのである。さらに言えば、何かしら「幸運」は、随所随所にゴロゴロしているのだが、その「幸運」をして「幸運」たらしめることそのことのできる、「人間の態度・姿勢・構え・積み重ね・関心など」が、ありそうな気がして仕方がない。(※15

と。上述の“幸運論”とも結びつく具体例として、“ロジャーズとの出会いに至るプロセス”のなかで、欠くことのできなかったもうひとつの出来事を紹介しよう。
 フォックス氏と出会う数ヵ月前、“教育相談にすっかり行き詰ってしまった頃”のエピソードだが、“天の声を聞く”という神秘的な体験を得ているのである。当時の友田は、自分が抱いている疑問に何の解答も与えてくれない“心理学”にすっかり失望し、“教育相談”という仕事にしてもまったく成果が上がらず、鬱々とした日々を過ごしていた。本人の証言によると、

   とにかく、“俺の一生はもう、これで先が見えちゃったなァ!”、“この先生きていてももう、どうせろくなこともできっこないし……”とか、“こういう大事な問題があるのに誰一人取り組もうとする人もいないし……”というような考えに包まれて、無力・無価値な己を自棄的に軽視して、ただもう鬱々としていた時のことでした。そうしたある日、それこそもう考えるのも嫌になって、動くのも嫌になってしまって、縁側に干してある布団の上にひっくり返って夢現の境をさ迷っていたと申しますか、文字通りに“夢現の状態”にあった時に、“天の声を聞いてしまった”んです。――仮に“天の声”と言っておきますけど、“馬鹿だなァ、お前は。それはお前がやることなんだよ!”と。
 記憶されているところで言えば、“馬鹿だなァ、お前は。”という声を聞いた時点で、ハッキリ意識は戻って、次の瞬間に“それはお前がやることなんだよ!”を、それこそハッキリと聞いて上半身を起こし、“誰だ?”と、振り向いたのですが左右を見ても誰もいないので、“あれっ?”と思ったトタンに“天の声”という言葉が意識を横切ったわけです。(※16

 この体験によって己の依存的だった態度・姿勢を悟り、『もしも疑問を持ったら、その疑問に取り組むのは(専門家ではなく)自分自身がやることだったのだ!』(※17)と、180度態度・姿勢を転換し、直ちに『先達がどのような考え方で相談業務を行なっていたのかを克明にするため、図書室で文献を調べる』という行為をとった。その結果、『このような見解・方向からの相談業務に対する完全な失望』という結論にたどり着き、その結論を携えてフォックス氏と激論を交わした。そうして同氏からロジャーズの著作を借りることができた――というプロセスをたどっているのである。
 “カウンセリングとの出会い”に至るまでの長いプロセス全体を通して見ると、友田という人の場合、それはただ単に“幸運だった”と言うよりも、はるかに“宿命だった”と表現したほうが近いのではないか? という気がしてくる。しかしこの“宿命というもの”もまた、“幸運というもの”同様に、きわめて厄介な不明確な問題であることには相違ない。友田はこのあたりの問題について、次のように書き記している。

   「人間」というものは、各人それぞれに、「持って生まれた本質」と言いますか、「生まれながらの本質」と言いますか、こうした言い方で表現できるような、「ある種の宿命」があるようです。この「宿命的な本質もしくは本領」とも言うべき「何か」は、世のいわゆる「性格」とか「性質」とかとは、およそレベルを異にする「何か」で、心理学などという科学では、それこそ「手も足も出ない何か」である、と私は言いたいのですが、そのような議論はともかくとして、忘れもしません、31歳の時(注:上述した“天の声を聞く”という体験時のことと思われる)、私は、「人間は、自分自身の持って生まれた本質もしくは本領に即して生きることができればできるだけ、それだけ幸福に生きることができるし、逆に、そのような本質もしくは本領から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ不幸になる」と思い定めました。(※3

 というこの友田の持論は、この現代という時代において、さらに探求され、明確にされ、その意味と価値とを検討し、検証していく必要があるのではないかと、筆者は切実に思っている。そして、もしも本腰を入れて“この問題”に取り組もうとするならば、“古典的な科学や心理学”の枠組み――すなわち、“決定論(デターミニズム)”を基盤とした考え方やアプローチ法――を超えて、“東洋思想”や“宗教”の領域に足を踏み入れるしか道は無いだろう、とも思う。

<考察2>

 もうひとつの論点として、“人間の飛躍・成長・発展”と“失敗や挫折の経験”との間には、何らかの相関関係がないだろうか? という問題もある。無論、これには上述した“幸運”とか“宿命”とかいう問題も絡んでくるので、単純に結論付けることは不可能だろうが。
 ここに至るまでのプロセスにおける友田を一言で表現するなら、「カウンセリングと出会うまでは、失敗と挫折の繰り返しだった」と言えよう。しかし、だからと言って、「失敗と挫折を繰り返せば、やがて成功に至るのだ」とはなるまい。なぜなら、このような言い方では、肝心である“人”が抜けているからである。
 この“人”という問題――ここでいう“人”とは、「天地自然の働きによって存在し、“何らかの宿命”もしくは“何らかの幸運・不運”を生まれながらに持ってしまっている存在」という意味での“人”だが――を包含したうえで、“人間の飛躍・成長・発展”に関する“普遍的な何か”を発見し、より明確にしていくことはできないだろうか? いや、というよりも“この問題”こそ、人間にとっての永遠の課題のひとつであり、テーマでもあるのだろう。
 現時点で確かに言えるのは、友田という人が歩んだ“飛躍・成長・発展のプロセス”は、少なくともこの問題に取り組んでいる私たちに「重大な示唆を与えている」ということである。そして、“この示唆”もしくは“人間観・宇宙観”を念頭に置きながら、友田のその後の人生プロセス(“ブライアンの真空”の問題を提起すると同時に、カウンセリングの真髄を求めて『論語』・『老荘』思想へと傾倒し、その後“蕉風俳諧”への取り組みを続けながら、最終的には『易経』へと探求の歩みを進めていった)を見てゆくと、非常に興味深いだけでなく、ひょっとすると“共感的理解”の経験まで得られるかもしれない。
 以上のことなどから、今後の私たち(とくに日本人)に残された課題は、「もしも“人間というもの”に真摯に取り組んでいこうとするならば、東洋思想的な立場や観点を踏まえたうえで、この“人間という未知なる存在”へのアプローチを展開し、よりいっそうの理解を求めて探求していくこと」にあると思う。友田が残した数々の業績は、そのような人々にとってのいわば“置き土産”であり、それらは個々人の内で熟成されていくにつれて、やがては貴重な資産になってくれるに違いないと筆者は思うのである。


7.国学院大学へ

 周囲の反対を押し切って“カウンセリングに身を投ずる”ことを決意した友田だったが、環境的条件は友田にそれを許さなかった。ちょうどその頃、いわゆる“教育改革”(六・三制の義務教育化)が始まり、友田はそれに伴う講演や下請けの仕事に追いまくられる状況下に置かれていたのだった。
 ところが幸運にも、この“教育改革”の制度変更による影響で国学院大学から招請がきた。この招請は、カウンセリングに専念したかった友田にとってはまさに“渡りに船”だった。そこで、“テープレコーダー”、“公務員並の給料”、“専用の個室”を用意することを条件に国学院大学へと移動した。当時、日本の教育界の総本山だった東京文理科大学の重要ポストをあっさりと捨てて……。余談になるが、友田の条件提示によって支給されていた“給料の額”は、当時の学長のそれより多かったという。友田はその事実を移動したあとに知ったらしいが。(※18
 こうして、テープレコーダー(注:オープンリールの録音機。当時、テープ1本の値段が2千円だったというから、現在のお金に換算すると2 万円程度だろうか? とても一般庶民が手にすることのできるシロモノではなかった)を備えた研究室において、本格的なカウンセリングによる面接が開始され、その記録が蓄積していった。と同時にロジャーズの著作の翻訳にも取りかかり、『ロージャズ臨床心理学』(創元社 1951年)を刊行した。この本は、友田がローガン・フォックス氏から借りて読んだ『Counseling and Psychotherapy』(1942年)の第1部〜第3部を訳出したものであるが、日本で最初にロジャーズの著作を出版物として世に出したのである。
 翌年には『ガイダンスのための面接法の技術』(金子書房 1952年)を刊行。これはテープレコーダーによる録音で得られた“友田が行なった実際の面接場面の記録”を掲載するという、当時としては画期的な内容だった。日本人の手による史上初の“カウンセリング本”が、このとき世に生み出されたのだった。
 その一方で、学生たちに対する授業においては、きわめてユニークな取り組みを展開した。伝統的な大学教育の基本形態である“講義形式”を放棄し、ロジャーズの言う“学生中心の教授”、もしくは“教えない教育”とも呼べるような実践を行なったのである。

   大学で一応講座も担当しておりますが、教室に行っても私はしゃべらない。“しゃべらない教師”ということで有名なのですが、教壇の上に立って黙っております。まあ、1年間を通じて実際に口を開く時間が正味30分ぐらいありましょうか。4月の新年度になると新入生が来るわけですが、教壇に黙って立っておりますと非常に学生が困るようです。“月謝払ってるんだゾー!”などと怒鳴り声が出てきたりします。私はそういう声を非常に歓迎します。嘘偽りのない本当の声だろう、という感じをひしひしと受ける。そうした叫び声に接したり、いわば罵声に接したりしながら、次第に学生たちが、“勉強は自分らがやらなくてはいけないんだ”ということを理屈でなく、なにか五感で感じはじめるようです。(※19

 余談になるかもしれないが、この“講義を行なわない教育場面”を体験した学生たちの中から、友田の後を追うようにして“カウンセリングに取り組んでいった”人物がたくさん輩出されている。そのような意味において、友田が行なったこの取り組みは、「カウンセリング界における人材を育成した」という一面もあったことを付言しておこう。

<考察>

 国学院大学へと転職した後については、とくに取り上げたい問題や疑問はないのだが、その直前の段階、具体的に言うと、『私は、2年間の試行期間を経て、この方向からの人間へのアプローチに、“とにかく10年間、自分を賭けよう”と決心したのであった』というところはどうも気になる。というのは、ここにも“友田という人の特徴”が現われている気がするのである。
 友田という人は、一面からすると「きわめて臆病で慎重で疑り深い人だった」とも言えよう。“カウンセリングに己を賭けた”とは言っても、それは“2年間の試験的な臨床を行なった後”で決意したのである。しかもその賭け方は、“とにかく10年間、(この仕事に)自分を賭けよう”であるから、この言葉の裏には、「カウンセリングが自分のものになるまでには、最低でも10年間はかかるだろう。しかし10年経って、もしも自分や自分の仕事が世の中に必要とされなかったなら、そのときは別の道を探そう」という思い方が含まれていたのだろうと想像する。さらには自分で決意したにもかかわらず、3名の恩師に相談までしているのである。これらの行為を見たとき、“用意周到な人物像”をイメージするのは筆者だけではあるまい。
 “ロジャーズの著作と出会ったときの体験”は、とても衝撃的だったに違いない。『その後1週間、文字通り夢中になって読みふけった』と記されているのだから。のみならず、『心理学から足を洗うのは、とにかく一応これを確かめてからにしよう』と、それ以前の決心を覆したほどであるのだから。
 にもかかわらず、即座にもしくは安易に飛びつくような行為は決してしなかった。“確かめること”――すなわち“自分の経験と照合すること”――を2年間も行なったのだから、このような人物は「石橋を叩いて渡る人だ」と評したほうがいいかもしれない。友田という人は、本質的には、“自信家”というより“小心者”であり、“傲慢”というより“謙虚”であり、“大胆”というより“慎重”であると、そう言ってしまってよいだろうと思う。
 前置きが長くなったが、筆者がここで取り上げたいのは、「そのようなパーソナリティーの持ち主が、周囲の反対を押し切ってまで、当時としては海のものとも山のものともつかない“カウンセリングという未知の領域”に己を賭けて突っ込んでいった」というのは、いったいどういうことなのか? という疑問である。
 無論、このような問いに対する真相となると、結局のところは本人しか知らないだろうし、ひょっとすると本人にも“本当のところ”はわからないのかもしれない。が、少なくとも何らかの手掛かりにはなりそうな言葉だったら、残されてないわけでもない。

   だいたい2年間やってみたところ、この本に書いてあることと、実際に自分が接触した感じとが非常によく一致する、という結論になってきた。そこで私は、自分の恩師になる人を3人選んで、ひとりずつ訪問して歩きました。(中略)ところが3人が3人とも“よせ、ダメだ。そんなことをやってもダメだ。日本人にはそんなものが上手くいくわけがない”という。そこで考え込んでしまったのですが、いくら自分で考えてもダメだと思えない。実際クライエントに接触したところだと、どうしても“ダメ”という感じが湧いてこない。(※20

 というわけで“周囲の反対を押し切った”のであるが、要するに、「自分自身の経験からすれば、どうしてもダメとは思えなかった」というのが、決意させた唯一の根拠だったのである。
 ここに見られるのは、もはや“経験至上主義”と言っても過言ではないくらいの“経験を尊重する態度・姿勢”である。これほどまでに“経験によって概念化された自己”――単なる“自己”ではない――を裏切らない人間、誠実かつ忠実な人間は、特筆に価するのではあるまいか?(注:ここでは便宜上、心理学用語の“自己”という言葉を使用したが、この言葉の意味するところは『自己の構造』(友田不二男著)等を参照してほしい)。
 一般的に「日本人はお上(権威者)に弱い」とよく言われるが、それを思うとこの“友田の決意”に対する謎は深まってゆくばかりである。友田という人に見ることのできる(これはロジャーズにも当てはまるのであるが)、この“経験至上主義”はどこから来るのか? あるいはそのような“態度・姿勢・在り方”は、どうやって身に付けたのか? いや“身に付ける”のではなく、本当は“生まれ付き”のものなのだろうか? といったような、じつに興味深い問題が浮かび上がってくる。お釈迦さんは誕生した瞬間、右手で天を指し、左手で地を指しながら「天上天下唯我独尊」と唱えた――という逸話があるが、筆者はそんなことまで連想してしまうのである。
 逆の言い方をすれば、私たち一般大衆は「権威に弱い」がゆえに、友田が言うところの“幸運”が随所にゴロゴロ転がっているにもかかわらず、それに気づかずに“素通りして”しまっている、もしくは“引き受けない”でいる――のかもしれないのである。


8.大甕ワークショップ

 国学院大学へ移動してからの約5年間は、研究室に閉じこもってクライエントとの接触と記録取りに専念した。途中からは、先に紹介した『ガイダンスのための面接法の技術』(金子書房 1952年)を読んで研究室を訪れてきた遠藤勉氏(茨城中央児童相談所当時)と堀淑昭氏(明治大学短期大学助教授当時)の2名が加わった。
 そんな中、ローガン・フォックス氏(茨城キリスト教短期大学学長当時)から「ずいぶん資料もたまったようだが、発表してみないか。発表するのだったら大学の校舎を全部提供しよう」という申し出があり、これに同意した友田は“カウンセリング研究討論会”という名称の合宿形式での会合を、1955730日から1011日の日程で茨城キリスト教短期大学内において開催した。参加者は40数名。世話人は友田不二男、ローガン・フォックス氏、遠藤勉氏、堀淑昭氏の4名だった。(※21
 この合宿は、名称こそ“カウンセリング研究討論会”だったが、内容は現在で言うところの“エンカウンター・グループ”だった。ロジャーズが“エンカウンター・グループ”を開始したのが1967年だったとされているので、それよりもはるか以前の出来事だったのである。したがって、“ロジャーズのアプローチ法を個人にではなく、集団に対して適用した”という意味で言えば、この“研究討論会”は歴史上、「世界初のエンカウンター・グループだった」と言うことができるだろう。
 余談になるが、会場の茨城キリスト教大学が日立市大甕(おおみか)という場所にあったので、このワークショップは後に“大甕ワーク”と呼ばれるようになり、と同時に“日本のカウンセリングの発祥の地”として当時は認識されていたのだろうが、このワークに参加することを“大甕参り”と称するようにもなっていった。
 さて、このときの“カウンセリング研究討論会”の内容であるが、一言で表現するなら「とても劇的なものだった」らしい。以下は友田による記述である。

   その会は、いわゆるノンディレクティブでやりました。すると集まった人たちがカンカンになって“バカな!”と、えらい剣幕で怒り出しました。いくら怒られてもこちらは“怒りたければご自由に”ということで怒り放題にしておきました。ローガンさんがいろいろ説得したのですが、最初の3日間は劇的場面の連続でした。とうとうローガンさんが3日目の晩に、“明日は僕がやるから、君はしばらく黙っていなさい。明日は僕に任せておきなさい”となったわけです。
 ところが4日目の朝に、私に電報が舞い込んできた。“火事、マル焼ケ、スグ帰レ”と。しかも丁寧に2通もきたのです。電報が2通きたので、“これは自分の家が火元だったに違いないぞ。こりゃあ、すぐ帰らなきゃならん!”と思い、しかもローガンさんから“明日は僕に任せておきなさい”と言われていたので、場を外してもいいだろう、と思って、私は大急ぎで東京に帰りました。
 帰宅すると私の家は丸焼けになっていましたが、火を出したのは隣の家だった。家内は戦災のことをすぐ思い出したらしく、隣から火が出たと思ったとたんに子供を起こして身支度をして、ぱっと逃げるだけ逃げて、一物残らず丸焼けになったわけですが、とにかく帰ってみたら別に火元ではない。火元でなければ刑事責任は無い、ということで“あとはお前の好きにせよ。俺は大勢集めてあるから行かなきゃならん”と家内に言い残し、すぐその足で大甕に引き返しました。
 これがひとつの幸運だったようです。ローガンさんが上手くやってくれたのか、それともこの火事で丸焼けになったというのがマッチしたのか、みんなの態度が逆転して全員が同情してくれるし、しかも“自分の家が焼けたのにすぐ引き返してきた。あいつ責任感の旺盛な奴だ”という評判が立ったりしたようです。
 帰った晩から何か様相がガラリと変わって、そうして5日目、6日目とぐんぐん熱が上がって、最後の晩は大変な熱で、みんな一睡もしないで大騒動になったのです。私は呼びつけられて、“こういう勉強を10日間で終わりにするのは惜しい。もっと続けてやろう。少なくとも東京にいる連中だけででも固まってやろう!”というような話になりました。(※21

 こうして友田らが開催した“カウンセリング研究討論会”は大成功を収め、全国各地にカウンセリングが飛び火していったのと同時に、日本初の民間のカウンセリング団体であった“東京カウンセリング・センター”(現在の財団法人日本カウンセリング・センターの前身にあたる)が同年の秋に設立されるという、事の成り行きの発端にもなったのである。

<考察>

 “自宅が全焼した”という幸運な出来事(?)によって、結果的にワークショップは大成功に終わったわけだが、このときの友田の選択と行為に対して「常軌を逸している」という感想を持つ人も少なくないだろうと思う。少なくとも筆者はそう感じるのだが、現代的・現代人的な価値基準からすれば、“家族に起きた危機”と“仕事上で起きた危機”とを天秤にかけたとき「どちらを優先すべきか?」は、多くの人々にとって選択に迷う余地などないだろう。仮にその仕事がどんなに重大な局面を迎えていたとしても。
 だが、友田本人にしてみれば、「きわめて当たり前に行為しただけ」なのかもしれない。というのは、その記述からは“迷い”や“葛藤”などはまったく感じられないからだ。そしてだからこそ、人並み外れた凄まじいまでの「カウンセリングに賭ける情熱」が感じ取れるのだろうし、その情熱に対して「常軌を逸している」という感想を持つのだろう。もちろん現在にだって、カウンセラーと称してカウンセリング活動に邁進している人々は枚挙にいとまがないだろうが、これほどまでに、己の全身全霊すべてを賭けて“仕事にあたることができる人”は、いったいどれくらい存在するだろうか?
 「プロ野球選手がサラリーマン化してしまった」と言われるようになって久しい。昔のプロ野球選手は技術や記録や勝敗だけでなく、その人にしか表現できない“存在感”や“人生”がグラウンドの内外にあって、それもまたファンを魅了していた。別言すれば、「野球が人生そのものだった」選手が数多くいたのだろう。それが今や単なる“職業”、つまり“プロフェッショナル”としてゲームを行なうプレーヤー――すなわち、野球は金銭を得るためのひとつの手段に過ぎず、“人生”や“プライベート”とは別物だと考えている人――が増えていることから、そのように言われるようになったのだろうと想像する。そのことの是非はともかく、現代においては「野球道」などという言葉も、すっかり“死語”となっているのは確かだ。
 “カウンセラー”もまた“プロ野球選手”と同様に、時の流れとともに“単なる職業”になってしまったのだろうか? 「カウンセリング道」もまた、同じく“死語”になってしまったのだろうか? だとしたら、なんとも寂しい気がしてならない。友田のように、あるいは友田とともに同時代を生きた“カウンセリング界の先人たち”のように、存在自体が“強烈な個性”だった人や、「カウンセリングは私の人生であり、道である」というような在り方をしていた人物は、現代という時代においては、もはや登場を望むことのほうが間違っているのだろうか? カウンセラーはあくまでも“職業”であり、カウンセリングは“お金を稼ぐ手段”、すなわち“生活を支えるための活動に過ぎない”のだと、そう思い定める他ないのであろうか?
 すでにお気づきだろうとは思うが、筆者は“仕事”と“職業”という二つの言葉を、意識的・意図的に明確に区別して使用している。それは「カウンセリング活動というものは、はたして“仕事”なのか? それとも“職業”なのか?」という問題を、世の多くの人々に問いかけたかっただけでなく、何よりも筆者自身の胸にもう一度、問い直さなければならなかったからでもある。
 そしてまた、このような問いを発した観点から、「お金や地位や名誉のためにではなく、世間的な常識などかなぐり捨てて、純粋に己の欲するままに“カウンセリングに身を投じた”友田不二男という人物」を、(現代的な価値基準からすれば、むしろ“批判すること”だってできるかもしれないが)もう一度、再評価すべき時代がやってきているのではないか? という思いを強くするからでもある。


9.ロジャーズとの決別

 大甕ワークショップの参加者たちが設立した“東京カウンセリング・センター”の会長に就任した友田だったが、3年ほど経つとこの団体の運営にすっかり行き詰った。カウンセリングに身を投じてからここまでの友田の歩みは、いずれかと言えば“トントン拍子”に進んでいったが、“団体の運営”という新たな局面を迎えたとき、それは友田に大きな困難をもたらしたのだった。以下は友田の記述である。

   私は、今ひとつの大きな困難に直面することとなった。それは、“東京カウンセリング・センター”における経験であった。私は、私なりに理解しているロジャーズに忠実である限り、“臨床的な成功”――といういい方で一応いっておく――には確信があった。少なくとも“失敗”という言葉で意識化される経験を見いだすことが、ほとんど不可能といっても過言ではなかった。また、“カウンセリング研究討論会”に関しても、詳細にいえばいろいろと問題はあるが、全体的には“失敗”を意識することは一度もなく、“成果”もしくは“成功”を、はっきりと認識させられるのがつねであった。にもかかわらず、ひとたび“東京カウンセリング・センター”の実態・運営・発展という問題になると、私は、何の希望をも見いだせなかったし、また、打開する方策も何ひとつたたなかった。私は、時間的にも労力的にも、また経済的にも、いたずらに困難の度を加え、苦闘に耐えるだけが精一杯となっていったのであった。(※22

 こうした状況に陥っていった友田は、これをどうにかして打開しようと“米国に留学すること”を画策し始めた。すると、ほどなくして運よくツテが見つかった。科学技術庁に勤務していた人物と偶然出会ったことがきっかけで、科学技術庁からの要請と援助を受けて、当時ロジャーズの本拠地だった“シカゴ大学カウンセリング・センター”に派遣されることになったのである。
 ところが、渡米する直前になってロジャーズから「渡米待て!」という便りがきた。「私はウィスコンシン大学へ行くことになった。あなたが来る頃、私はシカゴにいない。ウィスコンシンに移ったばかりで計画も立たないし、来てもらっても何にも役に立たないだろう。延期してくれ」ということだった。
 友田は弱ったが、すでに計画を変更できるような状況ではなかったし、そもそもの渡米する動機が「グループというものに対して、どのようにアプローチすれば運営・発展してゆけるのか?」という問題意識から生じていたので、「ロジャーズがいなくなったあと、それがどうなっているかを見てくることにも意義があるだろう」と思い、渡米することを決めた。期間は約半年間。貨物船で渡航したという。(※23
 ロジャーズが移動した後に残されていたシカゴ大学カウンセリング・センターは、一言で表現するなら「滅茶苦茶だった」らしい。友田の記述によると、

   ロジャーズが去った後のシカゴ大学カウンセリング・センター――これはロジャーズが設立したものである――は、私にいわせれば“火が消えた”姿であった。跡をとったバトラーにいわせれば“経済的にまったく無力”になってしまった。ロジャーズは、資金を“すっかり”持ち去ってしまったのである。アメリカでは、有能な教授はいろいろの財団と結びついて研究資金を獲得しているが、したがって、ロジャーズが獲得した資金をロジャーズが持ち去ることは、アメリカ人の通念としては異とするに足らないのであろうが、もしも私がロジャーズであったならばこのようなことはしないな、というのが私の偽りのない感情であった。マジソン郊外の、湖を一望のもとに見晴るかす湖畔の彼の“豪邸”に私は一泊させてもらったが、私の気持ちは晴れなかった。
 ロジャーズが去った後のシカゴ大学カウンセリング・センターのスタッフ会議は、抗争と対立の場であった。なんでもかんでもカール、カールで、カールなしには夜も日も明けない人々と、カールと聞いただけで頭にくる人々とのやりとりの詳細は、会話力の乏しい私には詳細にはわからなかったが、異様な光景はハッキリとわかった。私の世話をしてくれていたディックに問い質しても、詳しく語ってくれなかったが、しかし、“なんとも嘆かわしい”、“どうしようもない”事態であることを、彼は口にしていた。私は、東京カウンセリング・センターの望みのない状況と思い比べながら、この“現実の姿”を凝視せずにはいられなかった。しかも、この“後に残された人々のなんとお粗末なことか”と、私は思わずにはいられなかった。もっとも、何人かの俊秀は、ロジャーズが、資金とともに連れていってしまったのであるが。私は、“自由”ということと“エゴイズム”ということについて、首をかしげずにはいられなかった。(※24

となる。シカゴ大学カウンセリング・センターの“惨状”を目の当たりにした友田は、それらをもたらした“ロジャーズという人物”に対して、深い疑問と否定的な感情を抱いたのだった。こうしたなか、“滞米期間内の最大の楽しみ”にしていたロジャーズとの面会の日がやってきた。以下は友田の記述であるが、このときの友田のロジャーズに対する“感情状態”に着目しながら読み進めていくと、非常に興味深いと思う。

   よりよい“方法”もしくは“思考”を発見し創造すべく努力していることを、機会あるごとにロジャーズに書き送っていた私は、“何か発見し創造したものをもってきてくれたか?”というロジャーズの第一声に、“何もない”とさびしく頭をたれる以外になかった。彼は、かねて私が手紙で勧めておいた鈴木大拙博士の本を持ち出したが、私にはそのとき英語でディスカッションできるだけの力がなかった。ついで彼は、私の訳書(注:『ロージャズ 臨床心理学』創元社 1951 。『Counseling and Psychotherapy1942 の第1部〜第3部の翻訳本)を持ち出し、私の“訳者序”を示し、“これは君が書いたものだろう”と確認してから、“どういうことを書いてあるのか?”と問うてきた。
 その瞬間であった。私の脳裏に描かれていたロジャーズの映像は、いっぺんで暗雲におおわれた。ひとつは、それを英訳して送らなかった非礼と悔恨を省みる自分の思いであり、いまひとつは、それにもかかわらず、もしも彼がそれをほんとうに知りたいならば、いくらでも知り得たはずであるし、とうの昔に私に、率直に申し越してきてもよかったはずである、という思いであった。(私は、ロジャーズのクラスに出席したことのある日本人から、“これをお読みなさい”といってロジャーズからこの訳書を貸与された、ということをすでに告げられていた)。私は、滞米期間中を通して、この“暗雲”を入念に確かめなければならない、と思った。
 錯雑した“思考”と“感情”の推移を限られた紙面のなかで略述することには、どうしてもためらいを感ぜずにはいられないが、おもな点をいくつか書きだしてみよう。
 集中講義で出向いていたウィスコンシン大学からシカゴ大学カウンセリング・センターに書面を送り、離任の了解を求めたロジャーズの理由は、私の記憶する限り、次の3ヵ条であった。すなわち、“大樹の下には木が育たない”、“自分はそうは思わないが、家内がシカゴで生活するのをいやがっている”、“最後の仕事として心理学と医学との間の溝に橋渡しをしたいが、ウィスコンシン大学から与えられたポストはこの仕事をするのにふさわしい”と。第一の理由からすれば、彼は、“自分は大樹である”という自覚をハッキリともっていたのであろう。第二の理由は、私をして推測させるならば、シカゴ大学が黒人によって完全に包囲されてしまった事実と関連しているのであろう。周囲がすっかり黒人街になってしまったシカゴ大学から、いわゆる優秀な教授が去ってゆく傾向は、当時すでに表面化していたことであった。第三の理由は、その後の彼の活動によって裏づけられている。(※25

 友田にとっての“ロジャーズとの面会時における経験”は、友田の脳裏に“暗雲”をもたらした。ここに引用した論文の中で友田は“この暗雲”について、それをもたらしたものがいったい何だったのか、より明確にしようと筆を進めている。そのひとつは「ウィスコンシン大学に移動した理由」にあった。話が前後するが、もうひとつはすでに上述した通り、「シカゴ大学カウンセリング・センターの惨状を目の当たりにした」という経験からきていた。そして記述はさらに進む。

   いまひとつは、ロジャーズの“フロイド批判”である。ウォーカーの論文に対するロジャーズの論文(注:『ロージャズ全集12 人間論』第2章に訳出されている)を発見したとき、私は、ほんとうに首をかしげずにはいられなかった。当時私は、ロジャーズあてにシカゴから、毎日のように手紙を書き送り、彼もまた、実によく返信を送ってくれていたが、それらの返信などとも合わせて、この論文に感じられるロジャーズは、当時の私にとっては明らかに“自信満々の大樹”であった。レッキィの諸論文(注:プレスコット・レッキィの諸論文は彼の死後マーフィーによって編集され“Self-Consistency”と題して出版された。なお、友田はこのレッキィの著作を『自己統一の心理学』岩崎書店 1955 と題して訳出している)を読んだとき以来、私なりに感じていたところであるが、私にいわせればロジャーズは、その理論的な概念構成を少なからずレッキィから取り入れているし、そのことは、多かれ少なかれフロイドとの関連においてもいえることであるが、なぜかロジャーズは、他者との相違は明確に叙述しても、明らかに他者から取り入れていることに関しては、明示することをしないのである。彼が明示するよりどころは、つねに、彼の仲間のもののみに限られているのである。私は、彼の表現(言葉)とはまったく異質の“オヤブン”を感じないわけにはゆかなかった。
 詳細にいえばまだまだいろいろの問題があり、それについては逐一ロジャーズに書面を送りながら、直接会える日を心から期待していたが、いよいよ彼を訪れる日程が確定したときに突如、私は、“避寒のためにフロリダに行く。これは前々からの妻との約束で変更できない”という通知を彼から受け取ったのであった。それは、当時の私にとってはまさしく“晴天の霹靂”であると同時に、私が、文字通り私自身の道を歩むことを自覚的に決断する機縁であった。私が、行動のレベルにおいて自分の足で歩きはじめたのはそれからであった、といってよかろう。(※24

 米国留学中の体験は、友田に“決定的な変容”をもたらした。すなわち、「行動のレベルにおいて、自分の足で歩きはじめる人間へと生まれ変わった」のである。ここに、ロジャーズ(という大樹)から解放されたひとりの臨床家、友田不二男が誕生したのだった。余談になるが、その後友田は機会がある度に“海外への旅行”を敢行している。正確にはわからないが、その回数は10数回を数えるほどだ。とにかく“旅行好き(特に海外旅行)”で有名な人だったのだが、そうなっていった原点は“このときの体験”にあったのではないか? と筆者は想像している。
 その後の友田の歩みについては、巻末に掲載した「人物史年表」(p.326)を見ていただければ一目瞭然だろうが、“ロジャーズに追従していった”と言うよりもむしろ、“東洋思想に傾倒していった”のである。いや、“傾倒していった”という言い方は正確さを欠いている。正しく表現するなら、「自分という人間の原点・本来性に戻っていった」と言うべきであろうが。
 ところで、ここで友田が達成した“行動レベルの自立”という問題だが、これが人間にとって“いかに容易なことではないか”ということにも、言及しておいたほうがいいかもしれない。友田は次のように述べている。

   “自由”とか“自立”とかいう言葉は、言葉としてはまことに単純であるが、現に生きている人間が、文字通りの意味においてこれを体得し行動化することは、至難事中の至難事といっても決して過言ではあるまい。概念的・観念的なレベルでいえば、私は、ロジャーズに“傾倒”したとか“心酔”したとかいうことは一度もなく、ましてや“ロジャーズ一辺倒”と評される状態に陥ったことはかつてなかった。私が目ざしていたところは終始一貫、私なりに“この方向から人間へとアプローチする”ことであり、当初考えたことは、そのために、まず非指示的アプローチを十分に身につけたうえで、私なりのアプローチを発見し開拓する、ということであった。しかし、実際にそれを遂行し達成することは、決して容易なことどころではなかった。思いつきや試行錯誤によるいくたびかのロジャーズへの反逆は、そのたびに、臨床的な失敗によって報いられ、これまたそのたびに、またもやロジャーズへと逆もどりする以外になかった。(※22

 この記述を読んで“ある種の驚き”を感じるのは、筆者だけだろうか? 世間的な、もしくは臨床心理学の世界やカウンセリング業界における友田不二男の評価というのは、「ロジャーズを日本に紹介した最初の人物であり、ロジャーズ流カウンセリングを日本に広めた人物であり、ロジャーズ派(ロージェリアンとも呼ばれる)の第一人者である」となるだろう。平たく言えば、「日本におけるロジャーズの最初の弟子である」となるわけだ。
 しかし友田本人からすれば、世間からのそのような見なされ方は、じつは最初――すなわち、ロジャーズの著作と出合った時点――から“誤解”だったのである(少なくとも概念的・観念的なレベルでは)。なるほど、筆者は本稿の「学生時代」の箇所で、友田を“誤解される名人だった”と評したが、これほどまでの大きな“誤解”を世間の人々に与えていたとは思いもよらなかった。もはや“名人”という称号では足りないような気もしてくる。
 この“誤解される”という特質についてだが、これはいったいどこから来るのだろうか? あるいはどうしてそうなってしまうのか? という問題はきわめてやっかいな難問だ。正直なところ、「よくわからない」としか筆者には言えない。が、“友田という人”をふと感じたところでそれを言葉にすれば、「エゴイストではなかった」というパーソナリティーは少なくとも感じられるし、ひょっとすると「そのこととなんらかの関係があるかもしれない」という感触なら持つことができる。
 さて、ここに引用した論文(注:『ロージャズ全集18 わが国のクライエント中心療法の研究』岩崎学術出版社 1968 内、第5部第17 ロジャーズと私)の最後で、友田は“ロジャーズと私との異同”を論じている。この記述は、ロジャーズとは異なる“友田という人”を知るうえで、まことに興味深い素材になり得ると思う。

   通俗的・世間的なレベルでいえば、ロジャーズは、“世渡り”のじょうずな男であるといってよかろう。その点、私は、ロジャーズ的というよりははるかにフロイド的である。臨床家としての私は、現実の生活場面における私ときわめて質を異にする、といってよかろう。しかし、物欲とか社会的な名誉欲とか、あるいはいわゆる“尚賢思想”という観点からいえば、臨床家としての私と現実の生活場面における私との間に、私は、差異を見いだすことができない。今の私にいわせれば、このような観点からの見方に関する限り、ロジャーズのなかに大きな不一致を感じないわけにはゆかないのである。臨床家としての彼は、逐語記録や録音に関する限り、貧富の別なく、社会的な地位・職業の別なく、クライエントと応接している。しかし、現実的・社会的な生活場面においては、人間の“別”をきわめてハッキリさせているようである。この違いは、おそらく、社会的・文化的な風土の差と無関係ではあるまいと思うが、しかし、このような差が“現にある”ことそのことには、ロジャーズも私も、なんら個人的な差異がない、と私はいいたい。それは、人間に“克服”できる不一致ではなく、ただ、“超える”ことができるかどうかである、と今の私は思っている。(※26

 このようなロジャーズに対する人物評について、客観的立場からすれば“異論がある”という読者も少なくないかもしれない。がしかし、ここに描かれているのは“友田の目に映ったところ”のロジャーズであり、“友田にとっての経験的事実”である。それを否定し反駁することなど、いったい誰にできようか?
 そしてこの論文の最後は、次のような言葉で締めくくられている。

   臨床家として、ロジャーズも私も“関係”に焦点を置く。しかし、ロジャーズが認知し思考している“関係”と私のそれとは、明らかに異なっている。その具体的な相違については、本全集の第9巻“カウンセリングの技術”(注:『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』岩崎学術出版社 1967 を指す)にかなり詳細かつ明確にしたためておいたが、端的にいえば、ロジャーズの場合は“関係のある関係”であるのに対して、私の場合は“関係のない関係”である、といってよかろう。ロジャーズにおける関係は、まさしく“カウンセラーとクライエントとの関係”であり、私の関係は、カウンセラーとクライエントとの間になんらの関係もない、もしくはなくなっている状況、を意味するのである。人間は、どのような意味にもせよ、他者との関係において、“自分というもの”になりきれるものではない、というのが今の私の確信なのである。他者との関係は、しょせん、“自分というもの”を発見し確かめてゆくのに役立つ以外の何ものでもなく、その“発見”され“確かめ”られた“自分というもの”になるのは、決して“他者との関係”においてではない、と今の私はいいたいのである。
 ロジャーズのもとにロジャーズを超える人材がでないという一般的評判は、ロジャーズを超えて究明されるべき“人間の課題”であろう。(※27

 『ロジャーズと私』と題されたこの論文は、「ロジャーズへの“決別宣言”である」と読むことができよう。友田の考えによれば、「他者(すなわちロジャーズ)との関係を断ち切ったとき、あるいは他者(すなわちロジャーズ)との関係が一切なくなったとき、はじめて“自分というもの(すなわち友田不二男自身)”になれる」というわけだ。
 “友田とロジャーズとの違い”について、友田は登山に例えて次のようにも話していた。「私とロジャーズとは、ベースキャンプまではまったく同じルートを歩むが、最終的に頂上を目指すところでの道のり、すなわちアタックのルートが異なる」と。
 ここで言う「アタックのルートが異なる」とは、先に挙げた“関係論の違い”――ロジャーズの場合は“関係のある関係”であるのに対し、友田の場合は“関係のない関係”である――を指すのは言うまでもない。なお、ここで取り上げた“関係論の違い”をさらに詳細に知りたい読者は、文中に記されている『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』(岩崎学術出版社 1967年)を熟読吟味したうえで、機関誌『カウンセリング研究VOL.13』(日本カウンセリング・センター 1994年)内に掲載されている論文、『“真空”における人格変化 ―友田不二男氏が捉えたクライエント・センタードの本質―』(諸富祥彦著)を併読されることをお薦めする。

<考察1>

 “ロジャーズとの決別”をめぐっては、じつに様々な問題点が想起されるが、ここでは“ロジャーズと道を違えていったプロセス”に焦点を合わせて、これをさらに追いかけてみようと思う。
 とその前に、友田とロジャーズとの“関係論の違い”について(これは本稿の主旨とは異なるが)、もう少し明確にしておいたほうがいいかもしれない。以下は、ある座談会の席での友田の発言である。

   ああ、あれが生きてきたなあ――第9巻のハーバート・ブライアンのケース(注:『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』岩崎学術出版社 1967 を指す)をもってきているんだけど、おそらくロジャーズの40歳ごろのケースだろうと思うけど――伊東さんは、カウンセラーはスナイダーじゃないかというけれど――とにかくクライエントのブライアンがヴァキューム(真空)という言葉を使っているんですよ。ヴァキュームというのは、現実離れした世界なんですがね。いわば無菌状態の、現実的な状況でないところ、実際にはあり得ない世界のことなんですけどねえ。
 このハーバート・ブライアンと名づけられたクライエントが、人間が変化するのは、わかりやすくいうと“ひとりぽつんといるとき”である、人間と人間の接触があったり、現実の状況のなかでは、人間は変化しない、といいだすんですよ。カウンセラーはこの意見に反対で“人間関係において人間は変化し成長してゆく”という。このところがわたくしのキイ・ポイントになるので注釈をたくさんつけたんですけれど、わたくしは確かに、クライエントに軍配を上げているんですよ。人間はひとりでぽつんといるときに飛躍したり成長したりしてゆく。その飛躍や成長を確かめてゆくのが人間のつながり、具体の世界、であるけれど、その現実の世界、現実の人間関係において成長が起こるのではない、と思うんです。
 そう考えてみると、これは、禅にもそのままつながるんで、修験者がひとりで山に入って滝に打たれるとか、座禅をひとりで組む意味が、わたくしには非常にリアルになるんです。これをカウンセリングにもってくると、ロジャーズのテクニックが意味をもちうるのは、クライエントがひとりでぽつんと置かれた状態になることにある。(※28

 『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』に付された友田の訳注を読めばさらに明確になるだろうが、筆者がこの文章を引用したのは、友田の関係論――すなわち“関係のない関係”論――は、「禅思想(東洋思想)を基盤にした考えかたである」ということを示したかったからである。対するロジャーズの関係論――すなわち“関係のある関係”論――は、「西洋思想を基盤にした考えかたである」と言ってよいだろう。(ちなみに、このなかで議論のひとつとなっているブライアンのケースの“カウンセラーの正体”だが、それは“ロジャーズだった”ことが最近の研究で判明している)。
 したがって、友田が“ロジャーズとの決別を宣言した”という事実は、臨床家としての自身の基盤を欧米流の心理学や西洋思想にではなく、「(禅思想を含めた)東洋思想にシフトした」ということを同時に意味するのである。
 もっとも、ロジャーズも晩年は「スピリチュアリティの方向へシフトしていった」と伝え聞いているので、ひょっとすると晩年のロジャーズだったら友田の“関係のない関係論”に対して、大きく肯いたかもしれない――という可能性はあるが。余談になるが、ロジャーズの“スピリチュアルなケース”(注:『カール・ロジャーズ入門 自分が“自分”になるということ』諸富祥彦著 コスモス・ライブラリー 1997 P.265 に掲載されているジャンのケース)を検討していた講座の席上で、友田が発した「ロジャーズがようやく私に追い付いてきた」というセリフを、筆者は忘れることができない。
 さて、ということになると、“ロジャーズと決別していったプロセス”は、イコール“友田が東洋思想へとシフトしていったプロセス”だと見なすことができるだろう。となると、そもそも友田が“友田自身の道”を歩むようになっていった原点はどこにあったのだろうか? このあたりの問題について、友田本人の表現によると、

   端的に申し上げて“老子の説く道(タオ)”に少しでも沿う方向を志す時、私は、ロジャーズからスタートした歩みが自然とそのまま東洋、就中“中国”の古典へと続いてしまったことを、ハッキリと自認し自覚しているのであります。もちろん、“お前の場合、中国の古典が先かロジャーズが先か?”と問われますと、これは鶏と卵の先後を論ずるようなものですけれど……。(※29

となるわけで、「原点は何か?」と問うたところでこれは、“本当のところ”となると本人にも答えられない性質の問いなのであろう。ということを十分踏まえたうえで、「友田と東洋思想との関連」について、現在の筆者にわかる範囲でより明確にしていこうと思う。
 東洋思想との最初の出会いは、旧制中学時代にまでさかのぼることができる。すでに述べたが、『論語』、『孟子』等の漢文(中国の古典)に強い興味と関心を持ったという。それから夏目漱石の『吾輩は猫である』にも関心と疑問を抱いた。無論、それらの関心や疑問が“カウンセリングと結びついて”のものではなかったのは間違いない。この当時の友田には“カウンセリング”はおろか、“心理学”という言葉すら頭になかっただろうと想像するのは、むしろ当然だと思うからだ。
 青年時代には、人並みに“宗教”にも関心を持ったという。道元の『正法眼蔵』はとくに愛読したらしく、「戦時中に読破した」という話も伝え聞いている。その中の一節、「自己をはこびて万法を修証するは迷いなり。万法きたりて自己を修証するは悟りなり」は、友田の座右の銘のひとつになっているほどだ。ただし、友田にとっての禅仏教は、「“宗教”というよりははるかに“哲学”だった」と述べている。(※30
 教育相談時代には、“天の声を聞く”という神秘的な体験があった。この体験は上述の“道元の言葉”にぴったり符合しているものと筆者は考えるが、それはともかく、その後の友田の人間観や宇宙観、そして信念が形成されていく過程において、「きわめて重大な意味を持つ体験だったに違いない」と筆者は想像している。
 カウンセリング(すなわちロジャーズ)と出会った後は、とくにこれといったエピソードは思い当たらないが、大甕ワークショップのときの体験を『老子』第一章の「玄之又玄、衆妙之門」と結びつけてのちに語っているのは興味深い(※31)。また、米国留学する前のロジャーズとの手紙のやり取りのなかで、「鈴木大拙の著書を読むようにロジャーズに薦めていた」のは、上掲した論文中に示されている通りだ。これなどは、「ロジャーズのカウンセリングと禅思想との関連を友田が観じていた」からだろうと筆者は想像する。
 「友田と東洋思想との関連」に限って言えば、概ねこのようなプロセスを経ながら、1967年に『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』を編集・翻訳した際、クライエントのブライアン氏が発した“ヴァキューム(真空)”という言葉と出会ったのである。友田はブライアン氏の“ヴァキューム(真空)”という言葉を禅における“無”や“空”と同一視しているが、友田を開眼させると同時に飛躍・成長・発展させたのもこの言葉――というより、この言葉を発したブライアン氏――だったのである。友田はこのときの経験を、

   第三のことは、この翻訳を遂行する過程において、だれよりも私自身が“はじめて気づかせられた”問題であります。もっと正確にいえば、“そこに重大な問題がある”ことは前々から感じていながら、しかもどうにも明確にならずにいたことが、ブライアン氏の表明をとおしてきわめて明確な問題意識となった、その“問題”であります。それについては、かなり入念に“訳注”をしたためておきましたので、ひとりでも多くの読者のご検討とご批判とを仰ぎたいのでありますが、それは、ブライアン氏によってまず提出され(ク452――215ページ)、やがてカウンセラーによっても取りあげられるようになった(カ515――250ページ)“真空(vacuum)”の問題であります。(※32

 と述べている。この文章は『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』の「編者あとがき」からの抜粋だが、これに続けてまさに“友田不二男の真骨頂”とも評すべき持論を展開している。少し長くなるが、ついでにその部分を転載しておこう。

   今ここに、訳注以上に書きそえる必要を感じませんので、たんに問題の所在を示唆するだけにとどめますが、もしも今の私の仮説的な問題設定が支持されるとすれば、たんに私が経験している“カウンセリング”がいっそう明確になるばかりでなく、今日一般に“教育”とか“指導”とか“訓練”とかいう言葉にもとに遂行されている人間のいとなみは、基本的に独断であり、錯誤であり、迷妄である、ということになるでしょう。果たしてそうであるかどうか? 現在のいわゆる科学的方法では、おそらくとうていたしかめ得ない問題でしょうが、少なくとも“人間の基本的なあり方”に密着する“哲学”として、思考し究明すべき絶大な課題である、と私は思っております。
 さらにいえば、これは、一般的・社会的に把握され、もしくは理解され、さらにしばしば信じられているとさえ思われる、東洋文化と西洋文化との有力な“かけ橋”ともなりうる手がかりを提出しているように思われます。現に本書に登場しているカウンセラーに関する限り、この“真空(vacuum)”という言葉で呼ばれている何かに関しては明らかに否定的なのであります。そしてそのような認識は、たしかに、アメリカ社会における一般的・通念的な理解のしかたなのでしょう。もしもそうであるとすれば、今、アメリカ社会における文化形式がとうとうとして流れ込み、かつ、まんえんしている半面において、これと真っ向うから対立するかの様相を呈している東洋文化的な思考形式が入り乱れている日本の状況は、東西両洋の基本的な文化形式を総合しうる可能性をきわめて豊富に保有しているという意味において、まことに重大な意味を含んでいる、といえるでありましょう。(※32

 なにかしら筆者には、この文章が「現在の日本人に宛てた“遺言”であり“警告”でもある」かのように読めてしまうのだが、それはともかく、もしも読者がこの友田の持論を真に理解するならば、その後の友田の歩みについても“おのずから”理解できるだろう――と筆者は確信している。

<考察2>

 ここで記述は一転するが、「友田がブライアン氏に出会ったのは1967年だった」という事実に、疑問を抱いた読者はいないだろうか? なぜなら“ブライアンのケース”は、友田が最初に手にした(1949年にローガン・フォックス氏から借りた)ロジャーズの原著『Counseling and Psychotherapy』(1942年)の後半部分に収録されている作品だからである。そのときには読まなかったのであろうか?
 このあたりの疑問について、ある講座の中で参加者の一人が友田にインタビューしたことがあった。筆者の記憶によると、友田の回答はだいたい次のようなものであった。
 「ローガンさんから借りた本は、1週間ほどで返却した。その後、アメリカに在住していた知人のツテで原著を購入してもらい、日本に送ってもらった。その後はその本1冊を頼りに、首っ引きでカウンセリングを実践しはじめた」
 と。次いで友田とロジャーズとの“関係論の違い”に関連したところで、「最初にその本(『
Counseling and Psychotherapy1942 のこと)を読んだとき、先生はどんな印象を持ったのか? ロジャーズさんの“関係論”に疑問を持ったのか?」という質問が続いた。戦時中には道元の『正法眼蔵』を読破しており、禅思想への理解も深かった人である。いったいどんな印象を持ったのだろうか? 友田はしばらく考え込んだあと、口を開いて次のように言った。
 「そうですねえ……。もしも“ロジャーズの考えが正しい”のなら、“禅は間違っているな”ということは直観的に思いましたねえ」
 と。この時点ではどちらにも軍配を上げなかったが、少なくとも両者の立場には“矛盾がある”ということは、最低限感じていたようだ。
 というわけで結局、1967年に『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』を編集・翻訳する以前に“ブライアンのケースを読んだ”という証言は得られなかった。この奇妙な事実――友田にとっての最重要人物であったブライアン氏は、1949年には友田の手元にすでに存在していたにもかかわらず、出会ったのは1967年、つまり18年後だった――は、いったい何を意味するのであろうか?
 筆者がここで連想するのは、「卒啄同時」という禅の言葉だ(卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「卒」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」という)。
 と考えてみると「友田という人が、ブライアン氏の発した“真空(vacuum)”という言葉に出会うことのできるレベルの人間にまで成長するのに、カウンセリングと出会ってから換算して約18年間を要した」ということになるだろうか? 「人生を左右するような大きな出会いは、滅多にやって来るものではない」ということは、頭では理解しているつもりだが、友田をして“約18年間も”要しているのである。我々凡人の場合はどういうことになるのだろうか? ……などということを考えると、気が遠くなるのでやめておこう。
 いずれにせよ、その後の友田が歩んだ方向(繰り返しになるが、カウンセリングの真髄を求めて『論語』・『老荘』思想へと傾倒し、その後は“蕉風俳諧”への取り組みを続けながら、最終的には『易経』へと探求の歩みを進めていった)を決定付けたのは、じつは“ブライアン氏だった”のである。そのような意味において、友田が「ブライアン氏は私にとっての最重要人物である」と価値付け、「ブライアン氏は私の分身である」とまで言い放つのは、(これらの発言を初めて聞く人は奇異に感じるだろうが)むしろきわめて当然のことであろう。
 上述したことを裏付けるために、もう少し歴史的経緯における事実関係を整理してみよう。巻末に掲載した「人物史年表」(p.326)によれば、1967年(7月)に『ロージャズ全集9 カウンセリングの技術』を発刊し、同年(11月)に『論語に現われている孔子とカウンセリング』と題する講演を行なった(公の場で初めて“東洋思想とカウンセリングとの結びつき”について語った。この講演の記録は『かりのやど』山径会 1994 に収録されている)。そして翌年に『ロージャズ全集18 わが国のクライエント中心療法の研究』(“東洋思想とカウンセリングとの結びつき”を論じた論文が多数収録されている)を発刊している。
 筆者の調査と推測によれば、まず最初に“ブライアン氏との出会い”があり、これが友田の目を“東洋思想”へと向けさせた。と同時に『ロージャズ全集18 わが国のクライエント中心療法の研究』の発刊を(必要性を感じてのことだろうが)企画・発案し、出版社に提案したところ快諾を得られた。そこで“18巻の原稿を執筆するため”に、旧制中学時代に慣れ親しんだ『論語』・『孟子』・『老子』・『荘子』をあわてて読み返すこととなった。以下は、このあたりの経緯についての友田の記述である。

   『ロージャズ全集 18巻』を刊行するに当たって、最後の18巻のところは「日本人の手でまとめよう」という編集方針が打ち出されました。そのとき、この“東洋思想とカウンセリング”というような一項目を編集することになりましたので、私、自分から買って出て、いわゆる“儒教とカウンセリング”、“老荘とカウンセリング”というようなあたりを分担させてほしいということを、編集会議で申し出たわけです。編集委員の中には、これに反対を唱える人もあったんです。が、幸いにも了解されまして。さて、書くとなると、これは嫌でも勉強しなければならなくなる。私に言わせれば、自分自身をそこに追い込むような形で、この“儒教とカウンセリング”、“老荘とカウンセリング”を自らに課したわけなんです。そして大急ぎで、この『論語』・『孟子』・『老子』・『荘子』を読み出したわけですが、読み出すにつれて、少々ならずあわてました。
 一応、青年時代に年頭にあった『論語』・『孟子』あたりを手掛かりに、自分では書けると思って買って出たわけですが、さて、それから30年近い歳月を経て、『論語』・『孟子』を読み直してみますと、青年時代に読んでいた『論語』・『孟子』とまるっきり違ってしまっておる。というと、いかにも『論語』・『孟子』が違っているみたいに伝わるかもしれませんが、『論語』・『孟子』は昔と変わりないのでしょうが、こちらが変わっているために、ぜんぜんそのう、見え方が違ってしまっているわけです。(※33

 要するに、長年のカウンセリング経験と“結びついたところ”で、上述の書物たち――すなわち東洋思想――が胸に響いてきたのだろう。これもまた、「とてもショッキングな出会い(正確には再会)だった」に違いないと筆者は想像している。
 このようにして、友田は“東洋思想とカウンセリングとの結びつき”について、自らの手によって学習し探求していった成果をほどなくして発表した。それが『論語に現われている孔子とカウンセリング』と題する講演だったのである。それに加えて、『老荘思想とカウンセリング』と題する講演(『かりのやど』山径会 1994 に収録)もその翌年に行なっている。友田にしてみれば、“(意識的・自覚的に)ロジャーズと決別してから”の念願であり本懐でもあった「カウンセリングにおける“ロジャーズとは異なる新機軸”をようやく打ち出した」わけだが、しかし、友田の経験に則して言えば結果は“惨敗”だった。

   私が“論語に現われている孔子とカウンセリング”に続いて“老荘思想とカウンセリング”と題する駄弁を弄したのは、昭和35年から36年あたりにかけてのことだったのではないでしょうか?(注:昭和4243年の誤り)。当時の私にとっては、それは、ひとつには、カール・ロジャーズが創唱し開拓していた方向でのカウンセリングもしくはサイコセラピィが、伝統的・一般的意味でのカウンセリングやサイコセラピィとは著しく趣を異にしていて、端的に言えば“西欧の文化・文明に基礎づけられているというよりはむしろ、かなり強く、かつ深く東洋思想と結びついている”という印象を強くすると同時に、他方、“東洋思想的基盤に立っての検討を必要とする”と思われてのことでした。しかし、ありていに言えば、このような個人的な印象と必要は、なんらの社会的反響を喚起するに至らず、文字通りの“空鉄砲”に終ったと言ってしまってよいでしょう。(※34

 上掲したのは友田による記述だが、“ブライアンの真空(vacuum)”にしても同様で、1994年に諸富祥彦氏(明治大学文学部教授)が『“真空”における人格変化 ―友田不二男氏が捉えたクライエント・センタードの本質―』(日本カウンセリング・センター)と題する論文を発表するまで、なんらの反響もなかったのである。
 友田は自身が問題提起した“ブライアンの真空(vacuum)”について、「私の死後、数年ほど経ったらきっと誰かが発見し再評価してもらえるだろうと、半ばあきらめの気持ちで、そう思い定めていた」と語っていたほどで、この諸富祥彦氏の論文に接したとき、

   まったく、まったく思いがけなくも、本誌・本号(注:機関誌『カウンセリング研究 VOL.13』日本カウンセリング・センター 1994年のこと)の第62ページ以降に掲載させて頂いた“諸富氏のご投稿”に接して、ほんとうに久し振りに驚き、感激し、希望を新たに致しました。端的に言えば、同氏の玉稿は、私にとっては文字通りの“玉稿”で、“カウンセリング”と呼ばれている世界に身を挺して以来初めての、“批判者”とはおよそ似常非なる真の意味での“批判的学習者”に出会うことができた“快哉”でありました。
 “徳孤ナラズ。必ズ鄰有リ”(論語)
の語に、私はいくたびか励まされてきておりますけれど、しかしこの度以上に強くかつハッキリと、この語の真義を実感したことがあったでしょうか?(※35

と、そのときの喜びを表現している。それくらいに、友田が己の全存在を賭けて投じた一石は、カウンセリング界に何の波紋も引き起こさなかっただけでなく、長きにわたって“抹殺されたも同然”にされてしまっていたのである。
 さて、本稿はそろそろ終結に近づいてきているのだが、1958年に“ロジャーズとの決別を果たして”から以降の友田不二男は、カウンセリング界全体の中では“ほとんど誰からも正当な評価を得られなかった”という意味において、「不遇な人生をおくった」と評して差し支えないだろう。本稿の主旨とは異なるので詳しくは言及しないが、友田が1963年に創設した“掌風会”という団体を通じて行なった活動(“啓蒙活動”だったと筆者は捉えている)も、結局は挫折し、現在では“風化してしまった”のが日本の現実である。
 以上のあれこれを考えたとき、友田が晩年にある講座の席で発した「ロジャーズという人は、私にとっては“ブライアン氏と私とを引き会わせてくれた人物”だったに過ぎない!」というセリフが、筆者の胸にはズシリと響いてくる。ロジャーズの信者がこれを聞いたら“暴言”に聞こえるだろうが、本稿の読者だったらきっとその意味と感情とを“共感的に理解できる”だろうと思う。
 ところで、「友田がその種を蒔いた」と言ってもいい日本のカウンセリングは、その誕生から現在に至るまでに、どんなふうにどの程度育ったのだろうか? あるいは、友田が生涯をかけて目指した方向と、その歩みによってできた“道”は、現在の日本のカウンセリングにどのような影響をどの程度与えているのだろうか? というような問いは、軽率に論ずることのできない不明確な問題であり、極論すれば「後世の歴史家や研究者に判断を委ねるしかない」だろう。
 注目すべき傾向のひとつとして、近年になって“トランスパーソナル”とか“スピリチュアル”とかいう用語(?)が世間一般にも浸透しつつあり(いや、それ以前に“カウンセリング”も用語として浸透しているのが現実かもしれない)、東洋思想をベースにした新しい立場や考え方も誕生してきているのは確かだ。しかし、これらの世の中における動向を注意深く見てみると、結局のところ「基本的には資本主義経済(金儲け)と結びついている」という意味において、「手放しでは喜べない」というのが筆者の偽りない現在の気持ちである。
 “この問題”は、気がついている人にとっては相当深刻な“大問題”でもあるのだが、第7章で取り上げた“掌風会”や、第8章“エコマネー”(友田は晩年カウンセリングを引退し、残りの人生でこれに取り組もうとした)のところで論ずるべき問題だと思うので、ここでは示唆するに留めておこう。


10.最後に

 以上、“友田不二男という人物”について、現在の筆者に可能な限りのアプローチを試みてきた。後世に残された我々にとって肝要なのは“そこから何かを学ぶこと”であって、決して“人真似をすることではない”ということは、あらためて言うまでもない。
 そのような方向――すなわち“学習者”――に態度・姿勢を転じた人たちにとっての“友田不二男という人物”と“その業績”は、計り知れないほどの貴重な資源を内在しているように思われる。その資源を私たちひとりひとりがそれぞれの歩みによって“発掘”し、“獲得”していくうえで、この拙稿が何らかの役に立ってもらえたなら筆者としては幸いである。


<引用文献>
※1 カウンセリング序章(日本カウンセリング・センター 1966年初版)p.20
※2 ロージャズ全集18巻 わが国のクライエント中心療法の研究(岩崎学術出版社 1968年)p.377
※3 掌風12 特集:友田不二男論(掌風会 1971年)pp.4-6
※4 カウンセリング研究 別冊第2号(日本カウンセリング・センター 1994年)p.40
※5 ロージャズ全集18巻 わが国のクライエント中心療法の研究(岩崎学術出版社 1968年)p.378
※6 カウンセリング序章(日本カウンセリング・センター 1966年初版)p.23
※7 ロージャズ全集18巻 わが国のクライエント中心療法の研究(岩崎学術出版社 1968年)pp.379-381
※8 北風と太陽(帯広カウンセリング研究会 2001年)p.3
※9 カウンセリング序章(日本カウンセリング・センター 1966年初版)p.27
※10 同p.30
※11 同pp.32-33
※12 非指示的療法(日本カウンセリング・センター 1963年初版)p.8
※13 ロージャズ全集18巻 わが国のクライエント中心療法の研究(岩崎学術出版社 1968年)pp.381-382
※14 掌風12 特集:友田不二男論(掌風会 1971年)p.9
※15 教育と学習 「平頭もりの話」を素材として(全日本カウンセリング関係団体連絡協議会 1970年)p.36
※16 カウンセリング研究 別冊第2号(日本カウンセリング・センター 1994年)p.20
※17 カウンセリング序章(日本カウンセリング・センター 1966年初版)p.163
※18 カウンセリング序章(日本カウンセリング・センター 1966年初版)p.36
※19 同p.45
※20 同p.35
※21 同p.37
※22 ロージャズ全集18巻 わが国のクライエント中心療法の研究(岩崎学術出版社 1968年)p.382
※23 カウンセリング序章(日本カウンセリング・センター 1966年初版)p.40
※24 ロージャズ全集18巻 わが国のクライエント中心療法の研究(岩崎学術出版社 1968年)p.385
※25 同p.383
※26 同p.387
※27 同p.388
※28 同p.420
※29 カウンセリング研究 別冊第2号(日本カウンセリング・センター 1994年)pp.6-7
※30 同p.42
※31 みちのく 友田不二男カウンセリング講演集(全日本カウンセリング関係団体連絡協議会 1970年)p.27
※32 ロージャズ全集9巻 カウンセリングの技術(岩崎学術出版社 1967年)p.294
※33 みちのく 友田不二男カウンセリング講演集(全日本カウンセリング関係団体連絡協議会 1970年)pp.10-11
※34 カウンセリングへの歩み 第7集 「孔子と老子とカウンセリング」(豊橋カウンセリングセンター 1987年)p.1
※35 カウンセリング研究 VOL.13 「虚ハ心齋ナリ―諸富氏のご労作と問いに接して―」(日本カウンセリング・センター 1994年)p.7

以上、『友田不二男研究 ―日本人の日本人による日本人のためのカウンセリング―』 日本カウンセリング・センター刊 2009年 P.10〜61より転載


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亀山ワークショップに参加して 〜“ブライアンの真空”についての検討〜
文:Taki.M(2000年9月16日)


1. はじめに

 今年も、8月17日から20日まで亀山ワークショップに行った。
 最近、諸富祥彦著『カール・ロジャーズ入門 自分が“自分”になるということ』を読んだ。この中で彼は、友田不二男のブライアンの「真空」の洞察に強い興味と賛同を持っていた。亀山では、その友田不二男が目の前にいるので、今回は人間・友田不二男に直に触れてみたいと思っていた。
 例年のごとく、セッションの最初は長い沈黙があった。私は思い切って、「ブライアンの真空」についての話を聴きたいと言ったら、明日、熱心な方が来るからということで翌日からになったが、友田先生を囲んでの学習会が出来た。2日目から3日目までの一日半、Dabid Brazier著『ZEN THERAPY 1997』の中の25ページから27ページの、友田不二男訳『ブライアンの真空』を検討した。
 「カウンセリングの神様」でなく「人間・友田不二男」が目の前にいるので、緊張しつつも、日ごろは、怖くて近づけない先生だったが、今回はいろいろ研究してみようという気から、別に恐い感じはなく、質問し、また、意見を述べたりし、生の感じを味わえた気持ちである。貴重な体験をすることができた。


2.『カール・ロジャーズ入門』を読んで

 正直いって、私はこの本を読むまで、ロジャーズについて何も知らなかったということがわかった。「カウンセリングの神様」カール・ロジャーズについてだけではなく、「人間・ロジャーズ」について、この本は興味深くのべている。また、著者(諸富)は「日本におけるロジャーズ博士の紹介者にとどまらず独自の仕方でカウンセリングの真髄を極め、“真空”に関する指摘で私の目を開かせてくれた」と友田不二男を絶賛している。
 正直いって友田先生がこんなに多大な貢献をし、また評価されているとは今まで知らなかった。さらに著者は、カウンセリングとは直接関係無く「自分が“自分”になっていく」ということについて述べている。このことは、私にとって非常に興味深く読むことができた。同時に、諸富先生の広く深い洞察力に感銘を受けた。


3.『ブライアンの真空』についての検討

 1942年にロジャーズは『カウンセリングとサイコセラピィー 〜治療実践における新しい諸概念〜』を発行した。その中の『第W部9章 ハーバート・ブライアンの事例』は、1967年、友田不二男編、児玉享子訳で『ロジャーズ全集9巻 カウンセリングの技術 ―ハーバート・ブライアンの事例を中心として』に翻訳・編集されている。
 この中で、編訳者の友田不二男は、そこに付した細かな訳注の中で、真っ向からロジャーズに対決を挑み、「人間は人間関係の中で変化するのではない。人間は『ひとりぽつんといる時』変化し成長するのだ」という自説を展開している。このようなロジャーズと友田不二男の両者の見解について考察する。

1)ロジャーズの見解についての考察

 『ハーバート・ブライアンの事例』の中で、カウンセラー(ロジャーズ)は、クライエントの吐いた「真空―Vacuum」ということについては否定的、中立的に捉えている。クライエントのブライアンは「成長は環境の中でおこったことがなく」それは「なにかしらひとりぼっちの黙想のようなもの」あるいは「宗教的な神秘主義者は長い間ひとりで黙想する」が、そこには「何かしら力を強化するようなことがあるにちがいない」という。
 これに対し、カウンセラー(ロジャーズ)は「そんなふうに成長が起こるとは思えない」と否定的に応答している。ロジャーズはその著書で「自分を受け入れ、自分にやさしく耳を傾ける時、人は真に“自分自身”になることができる」といっている。
 米国においては「真空―Vacuum」は、一般的にあまり良い意味には捉えられないこともその背景にあるのか。あるいは西洋文明、キリスト教等の宗教感が影響しているのか。クライエントは「真空」という表現を多く使っている。2回目、5回目にそれぞれ一回、そして8回目に5回使っているが、最終的にカウンセラーが受け入れないので、クライエントはカウンセラーと決別することになる。逆にいえば、クライエントが自立していくきっかけになっている。 

2)友田の見解についての考察

 友田は、成長は「真空」ないしは「ひとり」の状態でおきる、というブライアンの発言を支持し、これは「まことに重大な意味を持つ洞察的な表現もしくは提言であり、「人間の真相」はそうでしかありえない」といっている。そればかりか「真空」においてこそ飛躍的な成長や人格変化は起こる、というブライアンの考え方について「カウンセリングもしくはサイコセラピィに関し、さらに一般的に言って“人間の成長”に関して、まことに絶大な洞察を含んでいる」と絶賛している。
 友田の面接における、クライエントの言葉に、「おっかしいな。私が話していると、いつの間にか先生が消えていなくなっちゃう」とか「ああいるんだな、と思って話しているとまた、先生がいなくなっちゃう」という発言があるが、これは、クライエントが面接中に体験する「飛躍」的現象の状態であるのではないか。
 友田自身が自己の面接体験を通し、「クライエントが、カウンセラーはもちろんのことクライエント自身も全く意識しないような状態にまでなる」。そして「「人格変化」と呼ばれる「飛躍」的現象は、おおむねこのような状態において、つまり外から見れば「二人の人が話し合っている場面」のように見えながら「体験のレベル」では、そこには「一人の人間しかいない」と思える、そういった状態において起こる」と言う。そして「後で現実の関係に戻った後、クライエントはそこで「ひとり」ないし「真空」の状態において体験した自らの「飛躍」や「成長」の意味を除々に確認し体認していくのだ」と言う。

 このような背景がありながら、友田は、ロジャーズの『カウンセリングとサイコセラピィ』の『第W部9章 ハーバート・ブライアンの事例』を、1967年、『ロジャーズ全集9巻 友田不二男編、児玉享子訳 カウンセリングの技術 ―ハーバート・ブライアンの事例を中心として』として翻訳した。
 これは単なる翻訳でなく、友田は自己の理論に基づき、面接記録を徹底的に、細かい訳注により、ロジャーズに真っ向から対決を挑んでいる。「人間は人間関係の中で変化するのではない。人間は「ひとりぽつんといる時」に変化し成長をするのだ」と。
 このように、単なる翻訳でなく、挑戦的に自説を展開していることは大変おもしろいが、その過程においては、訳者と編集者との間で、大変な戦いがあったと想像できる。まず、訳者である児玉享子は米国在住が永く、翻訳力が高い。また心理学者でもあり、米国の風土、習慣についても見識を持っている。児玉は、友田の細かい訳注に、「ロジャーズはそのようなことを言っていない。また、米国では、ロジャーズの真空の考え方は受け入れられている」と強く友田に抵抗したが、最終的に、すべての責任は友田がとるということから、友田の訳注が生きることになったのではないか、と思われる。 
 友田はこの「ブライアンの真空」に、非常に重要な意味があると考え、さらにこのことを深く掘り下げ多くの論文や講演をおこなっている。「ブライアンの真空」とはロジャーズの表現でなく友田の言葉である。この友田の「ブライアンの真空」の理論が鮮明に表現され、結果として、日本では諸富氏をはじめ、多くの心理学者にも素直に受け入れられている。
 また、友田は『カウンセリング辞典』の人名欄にクライアントの仮名である“ブライアン”を解説している。この辞典の編集者である國分康孝は次のように追記している。「ハーバート・ブライアンを人名欄に収録したのは、友田不二男の要望による。編者はこの要望の中に友田のカウンセリング哲学、あるいはロジャーズ理解の本質が秘められていると解した」。
 友田自身、人間は「真空」の中で変化し成長するという自説を展開する際、そこで同時に、このことは「禅における“無”もしくは“空”と同一視できる」とのべている。この“真空”は宗教的な“無”“空”とも通ずるものがあり、日本においては理解されやすい背景があった、とも思われる。
 イギリスの若手ロジャーズ派リーダのDabid Brazierも、その著書『禅セラピィ:ZEN THERAPY 1997年』において、友田の「ブライアンの真空」論の部分を抜粋して、多いに評価し考察している。


4.ウオーク・スルー

 私は若い頃、コンピュータプログラマーであった。プログラマーとは、コンピュータに処理すべき手順を論理的に明確にし、コンピュータが理解できるコードで手順を指示することである。いざ、処理を実行してみると、自分の意図した所定の結果が得られず、何回見なおしても分からず、パニック状態になり、途方に暮れることがあった。
 このような場合は、自分で認識していないうちに、不具合(論理矛盾)を作りこんでいることであり、自分だけでは対応できなくなる場合である。このような場合、ウオークスルーという手法がある。これは、自分が自分の作った論理手順をパートナーに説明しながら、ステップ・バイ・ステップで最初から最後まで歩いて(見なおして)見ることである。このパートナーの条件は、まず、よき理解者であり、本人の動きにそって、本人を信頼し、一切の批判はせず、ひたすら聞き役に徹することである。ただし、本人の動きを邪魔することのない範囲で、確認や、質問や、指摘をすることが出来る。
 このようにして、パートナーに自分の組み立てた手順を説明するという作業を行なうことにより、自分ひとりではどうしても判明しなかった矛盾点を、自分自身で発見することが出来るようになる場合がある。その場合、パートナーが問題点を指摘しなくても、当事者である自らが、一瞬ひらめき、潜在的に作りこんでいた論理矛盾を発見できるのである。
 このときは、パートナーの存在を全く意識することなく、自分ひとりで居るかのように思える。これは自らが知らない(無意識)のうちに、作りこんでいる論理矛盾(不適応)を、良きパートナーの援助により自分自身の問題解決力(適応へと向かう力)により、問題を解決できるようになったものと思われる。
 私は、30年も前のこの体験が、なぜか「ブライアンの真空」あるいは「カウンセラーとクライエントの関係」と同じように思えてきている。
「クライエントと共にウオークスルー」
「Walk through with Client」


5.付録 ―時代背景の考察―

 私は一介のサラリーマンである。ロジャーズのこともあまり知らないし、『ロジャーズ全集』もほとんど読んでいない。しかしながら、ロジャーズと友田不二男の関係について知るために二人の略歴、主な著書などを比較検討してみた。

●ロジャーズは1902年、友田は1917年生まれで15歳ちがう。
●1940年前後、友田は戦地でも『正法眼蔵』を愛読しているほど、禅あるいは東洋思想の研究をしていたという。
●1942年、ロジャーズは有名な出世作『カウンセリングとサイコセラピー』を発行、1951年には『クライエント中心療法』を発行した。 
●1956年、友田は『カウンセリングの技術 ―クライエント中心療法による―』を発行。友田はこの著書の序で「ロジャーズのいわゆる“非指示的カウンセリング”もしくは“クライエント中心療法”という言葉で一般的に知られている方法を、はじめて知ってから8年半、ともかくこの方法の見地からする人間への取り組みを生涯の仕事にしようと決意してから6年半経過した」と述べている。
●友田のこの著書及び決意が、日本におけるロジャースの紹介者、そしてクライエント中心療法の日本における先駆者となったと思われる。
●『ロジャーズ全集』は、ロジャーズが1942年から1963年に著作したものが、日本において1966年から1968年の2年間に翻訳され発行されたが、なぜか、ロジャーズの著書の単位で編集されず、その関係がわかりにくい。友田はロジャーズの4つの著作を当初、『ロジャーズ全集7巻』にわたって、編訳している。
●友田は、シカゴ大学に留学する機会を得、ロジャーズに師事することができた。これは『カウンセリングの技術―クライエント中心療法による−』をすでに著作・発行した後である。さらに、1964年に二度目の渡米をし、アメリカのカウンセリングの実態を視察している。
●この後、1966年からロジャーズの『カウンセリングとサイコセラピー』の中の『第W部9章 ハーバートブライアンの事例』を、『ロジャーズ全集9巻 カウンセリング技術―ハ―バート・ブライアンの事例を中心に−』として編訳している。この編集の中で、友田は、ロジャーズの単なる紹介者にとどまらず、自説を展開し、真っ向からロジャーズに対抗している。

         
1)カール・ロジャーズの略歴

1902年 イリノイ州に生まれる(1月8日)
1924年 ヘレンと結婚、ユニオン神学校入学
1931年 『9才から13才の児童の人格適応の測定』博士論文 
1939年 『問題児の治療』(ロジャーズ全集1巻)
1942年 『カウンセリングとサイコセラピィ―治療実践における新しい諸概念』(ロジャーズ全集2,9巻)
1946年 『復員兵とのカウンセリング』(ロジャーズ全集11巻)
1951年 『クライエント中心療法』(ロジャーズ全集3,5,7,8,16巻)
1954年 『サイコセラピーと人格変化』(ロジャーズ全集13巻)
1957年 『治療的人格変化の必要十分条件』(ロジャーズ全集4巻)
1959年 『クライエントセンタードの枠組みにおいて発展したセラピー、パースナリティ及び人間関係の理論』(ロジャーズ全集8巻)
1963年 『人が“ひと”になること』(ロジャーズ全集12巻)
1967年 『治療関係とそのインパクト』(ロジャーズ全集19,20,21巻)
1969年 『学習する自由―教育はいかにありうるか』(ロジャーズ全集22,23巻)
1970年 『エンカウンター・グループ』
1972年 『パートナーになるということ〜結婚とそのオルタナティブ〜』
1977年 『パーソナルな力〜個人に潜在する力とその革命的なインパクト〜』
1980年 『ある人間の在り方』
1986年 『心理療法におけるクライエント中心及び人間中心のアプローチ』
1987年 2月4日死去

2)友田不二男の略歴

1917年 1月1日千葉県に生まれる
1935年 東京高等師範学校入学
1941年 東京文理科大学教育学科心理学専攻卒業。埼玉女子師範学校、埼玉師範大学教授、東京高等師範学校助教授を経て
1951年 国学院大学助教授
1955年 東京カウンセリング・センター会長
1956年 『カウンセリングの技術 ―クライエント中心療法による』
1957年〜1958年 シカゴ大学留学(科学技術庁からの派遣)ロジャーズに師事
1959年 (財)日本カウンセリング・センター理事長
1964年 二度目の渡米
1966年〜1968年 『ロジャーズ全集』を編集・翻訳
『復員兵とのカウンセリング 1946原書版』
(ロジャーズ全集11巻 友田編「カウンセリングの立場」)
『カウンセリングとサイコセラピィ 1942原書版』
(ロジャーズ全集2巻 友田編「カウンセリング」)
(ロジャーズ全集9巻 友田編、児玉訳「カウンセリングの技術 ハーバート・ブライアンの事例を中心として」)
(ロジャーズ全集18巻 「わが国のクライエント中心療法の研究」友田、伊藤、佐治、堀淑4人の対談)
『クライエント中心療法 1951原書版』
(ロジャーズ全集3巻 友田編「サイコセラピィ」)
(ロジャーズ全集16巻 友田編「カウンセリングの訓練」)
『サイコセラピーと人格変化1954原書版』
(ロジャーズ全集13巻 友田編訳「パースナリティの変化」)
1969年 『自己の構造 ―カウンセリングにおける人間像―』
1972年 『ロジャーズ全集』編集・翻訳 
『治療関係とそのインパクト 1967原書版』
(ロジャーズ全集19巻 友田編訳「サイコセラピィの研究」)
『学習する自由 ―教育はいかにありうるか 1969原書版』
(ロジャーズ全集22,23巻 友田編「創造への教育(上、下)」)
1990年 『カウンセリング辞典』人名欄にハーバート・ブライアンを解説
1997年 『ブライアンの真空 ZEN THERAPY p25〜27』訳

3)諸富祥彦の略歴

1963年 福岡県に生まれる
1983頃 筑波大学2年 「気づき」の体験(人は、他者との関係の中ではじめて「ひとり」になれる)
1990頃 『フランクル心理学入門 ―どんな時も人生には意味がある』
1997年 『カール・ロジャーズ入門 ―自分が“自分”になるということ』


6.参考文献

1)『カール・ロジャーズ入門 ―自分が“自分”になること』諸富祥彦
2)『ロジャーズ全集9巻 カウンセリングの技術 ―ハーバート・ブライアンの事例を中心として』友田不二男編
3)『カウンセリング研究 VOL13‘94』日本カウンセリング・センター
4)『カウンセリング研究 別冊2号』日本カウンセリング・センター
5)『ブライアンの真空』David Brazier著 友田不二男訳
6)『カウンセリング辞典』国分康孝編



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友田不二男先生を偲んで
文:あらききょうこ(2005年3月1日)


 環遊会の準備をしていると、少し早めに来て下さった工藤先生から友田先生が二月五日未明に旅立たれたと聞き、―――力が抜けていくようでした。
 病状を伺うにつけこの日が来ることを予期していなかったわけでは無かったものの、大きな、大きな後ろ盾を無くしてしまったようで、悲しいというよりかは、切なく、哀しい気持ちで「とうとう来てしまったか…」という思いです。
 友田先生が人の生命の妙を『天(テン)なり命(メイ)なりただくわうべからず』と引用されたこの言葉を思い出し、何かこういうときの支えにもなって、私にとっては今さらながら不思議な存在です。
 私が初めて友田先生をお見かけしたのは、平成9年の5月初めて参加したカウンリング入門の合宿、亀山山荘でした。台所から見える畑の中に麦わら帽子をかぶった、もう畑の一部に化しているようなたたずまいでしゃがみこんでいる姿のおじいさんを見て、てっきり近所に住むプロのお百姓さんが畑の世話をしてくださっているのだろうと、しばらくその様子を眺めていました。「あそこにいらっしゃる方がカウンセリングの神様といわれている友田先生よ」と教えられたときの私の驚き、衝撃は今でも忘れることはできません。
 このような驚きは、その後、私にはまるで「宇宙語」としか思えない様々な言葉や独特な観点にふれるたび、またその生き様に、私のちっぽけな今までの「私の概念」がガラガラと音をたてて崩れていく貴重な出合いになっていくのでした。
 最後に友田先生と言葉を交わしたのは、平成14年の夏季ワーク、鳴子温泉でした。夜のセッション後の放課後も終え、温泉に入って部屋に戻るころには午前二時になろうとしていたでしょうか、宿の階段を登ろうした時、階段の上から友田先生が浴衣姿にタオルを腰紐に差してまさに降りてこようとされていました。私はとっさに「こんばんは」といい、同時に友田先生は「おはよう」とにこにこされておしゃいました。
 両手で手すりにつかまりながら、一歩一歩ゆっくりと降りてこられる先生とすれ違ったとき「今からちょっとひとっ風呂」とおっしゃる言葉に返す言葉が見つからずに、「ああ、はい」とだけ言って、私は階段を登りながら先生が無事に下に降りられるのを見届けました。なんだか、そのうしろ姿がほほえましく、哀しくて、いとおしくて、そして立派で泣きたいような笑いたいような複雑な気持ちでしばらく立ちすくんでいたことを覚えています。これが最後になるとはそのときは思いもしませんでした。
 私が、自信喪失、自暴自棄になってカウンセリングの学習から離れてしまいたくなったときに、たまたま目にした「カウンセリング研究」の友田先生が語ったところを読んで救われた気分になったことがあります。座談会で参加者の質問に答えたくだりで、友田先生が「私とクライエントとのカウンセリング」を語られているところです。
(―――以下抜粋 カウンセリング研究 別冊第2号 一日学習塾 p27〜)
『私の大好きな言葉の一つが老子第一章の“玄ノマタ玄、衆妙ノ門”なんですけど、この言葉と結びついてフト気付いた発想があるんです。それは、“クライエントの話に耳を傾ける”ということは、真っ暗な、――真っ暗も真っ暗、寸分先も見えない真っ暗闇の洞窟、通俗的に判り易く言えば“クライエントの心”――その中へと降りてゆくための言わば“縄梯子”を拵えては継ぎ足しながら降りてゆく、ということをやっているんだ、というイメージが生まれたんですよ。そして、“そう、そうなんだなァ”と納得すると、そこで降りる穴が無くなっていて、“あれっ?これは……?”とわれに帰るみたいになると突然、今居るところより高めな感じの、しかし想いもしていなかった方角からクライエントの声が聞こえて、声が聞こえたとそちらからは幽かな光がさしていて、ですから大急ぎでそっちへ行って、行けばクライエントは、ドンドン光のさすほうに進んで行くこともあれば、逆にまた暗闇の別の穴に入って行くこともあるし、時には見えていた光がまた見えなくなることもあるし、でも、見えなくなるとそこに垂れ下がっている紐が手に触れて、それを頼りに上ったり下りたりしてゆくと、――つまり一言で言えば、“クライエントに案内されるだけでなく、自分も探索したくて、探索するのが楽しくて、――苦しいこともあるけれど全体的には楽しくて――“玄ノマタ玄”であるクライエントの世界、へと入ってゆく”という、“これが私の言う私とクライエントとのカウンセリング”なのですね。』

 友田先生は、人のことは何もかもお見通し、見えちゃうんだろうな、きっと私のことも見透かされているんだろうなぁと、身構えてしまうこともあって、「怖い」という気持ちがいつもつきまとっていましたが、ものすっごい洞察力は言葉にするまでもありませんが、その上で、その友田先生をもってして「正体不明の人間」の取り組みは手探りであるのだ、否、そういうものなのだと、何か勇気が沸く思いもします。

 友田先生から受け取った「千年のいのち」を、私の「千年のいのち」にどう生き、どう生かしていくのか―――それは、いつかいつかではなく、たった今!なのですね。

心から感謝を込めて    合掌


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