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私とカウンセリング カウンセリングとは?[資料&語録編]その他の論文集リンク集


 カウンセリングとは?[資料&語録編]
CONTENTS
▼ 自発協同学習で学ぶ
▼ カウンセラー・スポンジ説
▼ クライエント中心療法の概略
▼ 『自己の構造』 (友田不二男著)
▼ カウンセリングとは?[語録編]


自発協同学習で学ぶ
文:山本伊知郎(2009年7月15日)


はじめに

 自発協同学習とは、故・信川実先生によって名づけられ実践された教育法であり学習法である。日本カウンセリング・センターでは、平成19年度講座「カウンセリング概論」において、世話人だった故・平野正敏先生の提唱によりこの学習法が採用され、今日に至るまで同講座内での実践を継続している。
 平野先生は自発協同学習の専門家だった。長年、中学校教員を務めていた人だが、担当する国語の授業を“自発協同学習で”行なっていたのである。ということは“自発協同学習で”給料を得ていたわけで、このような意味からすれば、「カウンセラーであった」というより以上に「自発協同学習で飯を食っていた文字通りのプロだった」と評して差し支えないだろう。
 平野先生は長年センターでの講座の世話人を務めていたが、不思議なことにセンターではその時まで一度も“自発協同学習で”講座を開催したことはなかった。その人がなぜ、平成19年度に初めて「自発協同学習でやろう!」と決意したのだろうか?
 私が記憶している本人談によると、「前年度まで自習(木曜の裏講座)でカウンセリング概論(ロジャーズ全集2巻を読むグループ)を実験的に開催していた。その実験結果を踏まえると、これは自発協同学習でやらなくてはならない! という結論に達した」とのことである。
 これはどういう意味なのか? それ以上は何も語られなかったので推測するしかないが、「これまでと同様に“カウンセリングで”読書会を開催しても、結局肝心な“読む力”のほうはまったく付かないのではないか?」という思いに至ったのではないか……と想像している。

 と、ここまで書いたところで、「そういえば、故・友田不二男先生もある時期にカウンセリングから蕉風俳諧へと転身したよなあ……」ということが想起された。私の経験上、蕉風俳諧にせよ自発協同学習にせよ、それ以前に経験していたグループ・カウンセリング(エンカウンター・グループなど)と比較すると、「不自由さを感じてしまう」のは否めない。そしてこの「不自由さを感じてしまう」というところに、「何か大きな問題がありやしないか?」という気がしてきたのである。
 カウンセリングは「自由ということ」を最高度に価値づけている(と私は理解している)。がしかし、カウンセリングにおける“自由”とは、そもそも何なのか? それは私たちが普段の日常生活において概念化している“自由”や、世間的な意味での“自由”と同じものなのだろうか? あるいは違うのだろうか? 違うとしたら、何がどう違うのだろうか? 私たちが「自由さや不自由さを感じる」とき、個人の経験の世界において、いったい何がどのように生じているのだろうか? このあたりのことは、よっぽど慎重かつ入念に、検討もしくは探求しなければならない課題だろうという気がする。
 話が横道にそれたが、私には「自発協同学習に転じた平野先生の姿」が、「蕉風俳諧に転じた友田先生の姿」にオーバーラップして見えてしまうのだ。両氏にとってこの二つの取り組みは、「本領であり命であった」と私は評したい。平野先生に関して言えば、平成19年4月から自発協同学習に取り組み始めると、とたんに肝臓の腫瘍が急速に広がっていったと伝え聞いている。私はその講座に参加していた一人だったので、上述の話にも深くうなづけてしまう。というのはその講座での平野先生が、甚大ではない精神エネルギーを使って効果的な学習場面を維持しようと努めていたことを、私は肌で感じていたからだ。「いくらなんでもあんなふうに講座を行なったら、それこそ寿命を縮めるだろうな」と、当時から思っていたのだった。
 その後は入院生活を余儀なくされ、結局センターの講座に復帰する夢はかなわなかった。ということは詰まるところ、平野先生は文字通り“命がけ”で、最後の仕事として自発協同学習に取り組んだのである。ある種の意気込みとして「命がけでやるぞ!」というセリフを耳にするのは珍しくないが、真に「命の炎を燃やして何かに取り組むことのできる人」となると稀だろう。平野先生は私にとって、このような意味できわめて稀な人であり存在だった。


自発協同学習とは?

 さて、「自発協同学習とは何か?」である。それが本稿のテーマだ。まずは以下に、その特徴と典型的なプロセスを記述してみよう。もちろんこれは単なる説明に過ぎないので、体験なしにこれを読んでわかる人など存在し得ないだろうが、筆者自身の「概念と経験とを密着させていく」という意味において、伝えることができないのを承知の上で書いてみようと思う。
 自発協同学習の最大の特徴は、「学習場面が明確に設定される」というところにある。カウンセリング用語を使用すれば、「場面構成がきわめて明確に行なわれる」という意味になるだろう。自発協同学習には、「自発学習」、「協同学習」、「バズ学習」の3タイプの学習場面が存在するが、以下それぞれに解説を加えてみよう。

 1.自発学習場面

 まずは世話人(ファシリテーター・促進者)によって、グループに対し何らかの課題が与えられるところから学習場面が始まる。例えば信川先生の場合、よく「私、何歳に見えますか?」とグループに問いかけたが、課題の出し方には熟練を要するだろう。なぜなら、自発協同学習においては「正解と不正解が存在する類の問題は決して出さないようにする」からだ。
 「私、何歳に見えますか?」という問いだったら、問われた側は「自分に見えた感じや印象」で答えられるし、どのように答えても間違いにはならない。これがもしも「私、何歳ですか?」と問われたならば、「わからない・知らない」としか答えようがないし、仮に答えたとしても年齢を知っている人以外は全員不正解になってしまう。要するに自発協同学習では、「答えに○×を付けるのが目的ではない」のである。このあたりは世間一般の学校教育とは非常に趣が異なるので、世話人はよく心得ておかなければならない。
 次に課題を出された側(参加者たち)は、この課題に“個人で”取り組むというプロセスに転じる。ただし、出された課題によっては、「どのように取り組むのが最も効果的なのか、よくわからないので相談したい」とか、「個人で取り組むにはとまどいを感じる」とか、「こういう課題に取り組むには、何らかの工夫が必要ではないか?」というような反応が生じることも稀ではない。こういう場合には、後で解説する「バズ学習場面」を積極的に活用するよう、世話人は働きかける。
 余談になるが、ここのところに人間の「自発とか自発性と呼ばれている何か」が表出する。もっと言えば、「自発と呼ばれる何らかの心の働きとは、いったい何なのか?」という問題があるわけだが、これは難問なので、ここではあまり深く立ち入らないことにしよう。平野先生の言葉を借りれば、「自発の自は“自分”ではなく“おのずから”という意味であり、自発とは“自然発生”の意味である」となるが、このような表現で示唆できるだろうか? あるいは、もっと噛み砕いた筆者流の表現をすれば、世話人としては「決して素直ないい子には、なってもらいたくないのである」という言い方もできるだろう。
 という問題はさておき、自発学習とは基本的には「個人学習を行なう場面である」と言える。ここで問題になることの一つに、「学習スピードの個人差」がある。世話人としては「一人一人の学習プロセスを大切にしたい」という意味で、「周りの人のことなど気にせずに、自分のペースで自分の答えが発表できるまで、存分に課題に取り組んでもらいたい」という場面設定を行なう。
 ところが、そうすると当然、答えを発表できる段階に至るまでの個人差が生ずることになる。ここでもしも、発表できる状態になった最初の人が「私、できました!」と声を上げたら、それに続いて「私も」「私も」と、次々に声が上がるのは必定だ。そうなるとその声自体がまだ課題に取り組み続けている人への学習の邪魔になるだけではなく、「自分も早くやり終えなければ!」というプレッシャーを与えることになるだろう。このような環境に身を置いたのでは、「自発学習」など到底不可能だ。
 そこで私たちのグループでは、学習者の邪魔をしないための工夫として、「あらかじめ名札のプレートを伏せておき、自分の答えが発表できる状態になったら、そのプレートをそっと立てる」というルールを設けた。こうすれば声を出すことなく、「自分はもう発表できますよ」というサインを場に示すことができるわけだ。
 このようにして次々と名札が立っていき、最終的には全員が自分の答えを発表できる段階に至る。ここで次の「協同学習場面」へと移行する。この間、おしゃべりをする人はまったくない。参加者がカウンセリング学習者だからなのか、基本的には誰もが「他者の学習プロセスを大切にしている」ようである。あるいは個人によっては、もっと別の経験が内心では起きているのかもしれないが。

 2.協同学習場面

 協同学習とは、いわゆるグループ学習のことだ。自発学習が「個人プレー」なら、協同学習は「チームプレー」に相当すると言えるだろう。しかし、カウンセリングにおけるグループ学習場面と異なり、協同学習場面にはルールが存在する。「ご自由に!」というわけにはいかないのだ。
 そのルールとは、「自分の答えに自信のない人から発表する」というものだ。別の言い方をすれば、「自分の答えに自信がある人は発表を控えてもらう」という意味にもなる。
 このルールにはいろいろな理由や意味がある。それ以前にもう一つ、大前提として、協同学習場面には「参加者全員が一人残さず課題に取り組んだ結果、すなわち“自分の答え”を必ず発表しなければならない」というルールが設定されているのだが、これとの絡みもあって「発表を行なう順番」が決められているのだ。
 参加者は、最終的には必ず何らかの発言をしなければならない。それだけですでに相応のプレッシャーが全員にかかっていることになる。「自信のない人」の場合はとくにそのプレッシャーが大きく、「自分の答えをどのように発表しようか?」という緊張感や焦燥感で身も心も精一杯に違いない。こんな状態で誰かが自分より先に発表したとしても、頭の中は「どうしよう…どうしよう…」という思いが巡るだけで、他者の発言を聞ける余裕などまったくないだろう。つまり「自信のない人から」というルールは第一に、そういうプレッシャーからいち早く解放され、グループ学習に参加できるようになるために設けられているのである。反対に「自信のある人」の場合は、それ相応の余裕があるわけだから、自分の答えを心中に留めておきながらでも他者の発表に耳を貸すことができるわけである。
 第二の理由として、「先に優秀で立派な答えが発表されてしまったら、(自信のない人の場合はとくに)自分の答えを発表しづらくなってしまう」というのもある。学校教育の現場では、「優等生が真っ先に手を上げて自信たっぷりに発言する」という光景が普通に見られるが、このような行為はすでに劣等感を抱いている人たちに対して「ますます劣等感を植え付ける」以外の何ものでもなかろう。本稿の最後に示すことになるが、自発協同学習という取り組みが目指しているのは、「優越感や劣等感からの解放」にある。ゆえに万が一、「優等生が優秀な答えを真っ先に発表してしまう」という場面に遭遇した際には、世話人は、それがいかに他者に悪影響をもたらすかを示した上で咎める必要があるだろう。信川先生はこういうとき、「あなたの行為は人殺しになりますよ」と言って、その発言者に注意を促したと聞いている。
 ここまで述べればもう説明する必要はないかもしれないが、世話人には、「たとえ誰がどのような内容の発表をしたとしても、その個人の学習プロセスの結果である答えを最大限に尊重する」という態度・姿勢が望まれる。もちろん、このような態度・姿勢を身につけて実践するのは「生易しいどころではない」ということ、言うまでもないが。
 具体的には“レスポンスで”それを示すことになるだろう。ということはすなわち、世話人は参加者一人一人の発表に対し、原則として必ず「何らかのレスポンスをするのが望ましい」ということになる。これには最低限、「私はあなたの存在を無視していませんよ」というメッセージを伝達する意味があるだろう。しかし、だからといって「何か言えばいい」という単純なものではない。下手なレスポンスをしたら、「それっきり二度と口を開いてくれなくなる」ことだってあり得るからだ。このあたりはカウンセリングでも同様だ。私たちカウンセラーにとって「レスポンスを磨くこと」は、永遠の課題として存在し続けるわけだが、そのことは自発協同学習においてもまったく同じある。
 補足説明しておくが、初参加の人からよく「他者の発表を聞いたら、自分たちもそれに対してレスポンスしていいのか?」と問われることがある。答えはもちろん大歓迎だ。というよりもむしろ、「それがなければグループ学習の意味がない」と私は言いたい。カウンセリング用語の“グループ・ダイナミックス”である。これが協同学習場面の中核であるのは言うまでもなかろう。ただし、場合によっては「発表者の学習プロセスや答えに対して、極端に否定的・批判的な応答がなされる」こともある。そういう場面では“世話人の動き”が肝要になってくる。自発学習のところですでに述べたが、「答えに○×を付けるのが目的ではない」ということ、これを世話人はもちろん参加者も体得しない限り「効果的な学習場面は生まれてこない」ことを、世話人は肝に銘じておく必要があるだろう。
 正確なデータが手元にないのではっきりとは言えないが、自発協同学習で学んだ人たちは、「最初の頃は他者の答えに○×を付けたがるが、そのうち自然に“他者の存在や答えを尊重する”という態度に変容していく」と聞いている。このことは、現在に至るまでの私自身の経験においても「かなりの程度符合する」と言ってよいだろう。
 おおむね上述したようなプロセスを経ながら、最終的には参加者全員が自分の答えを発表することになる。そうすると自然に「その場における何らかのまとまった、参加者全員が共有できる学習成果が得られる」というのが典型だ。もちろん、グループの成熟度や様々な問題から「必ずそうなる」とは限らないが、「最初は個々人が単独で取り組んで学習したものが、協同学習の場面で力を合わせることによって、やがては参加者全員で分かち合えるようなまとまりのある成果が練り上がっていく」というところに、自発協同学習の最大の特徴と魅力があるように思う。
 ここまで述べれば、協同学習場面の大前提として設けられている「参加者全員が自分の答えを発表しなければならない」というルールが存在する意味と価値とが理解できるだろうか? そう、このルールには「自分が学習した成果を“自分だけのもの”にしないでくださいよ。参加者の皆さんにも“分け与えて”くださいよ。そういう広い心を育ててくださいよ」というメッセージが込められているのだ。世話人は決して「発表することを強要しているわけではない」のだが、このあたりのことを伝えられるようになるには相応の熟練と成熟した人格とが要求されてくるだろう。私の経験から言えば、口先だけでこのようなセリフを述べたとしても、参加者のほうは「強要されている」と内心では経験されるようである。
 もっとも、これと同様の問題がカウンセリング場面にも存在するということは、すでに多くの方々が経験しているだろうと想像する。カウンセラー(もしくは世話人)は、ただ単に「ご自由に!」というセリフを述べれば、それで即「自由な関係」や「自由な場面」が構成できるのだろうか? という問題である。この問題にこれ以上深入りするのは避けるが、「カウンセラーの言動とカウンセラーの存在の仕方が、カウンセリング場面においてどれだけ密着できているか?」は、きわめて重大な問題であり課題であることを示唆しておこう。

 3.バズ学習場面

 “バズ”とは「蜂がブンブンと飛ぶ音」の意で、今日では様々な分野で使われる用語になっているようだが、教育の分野においてはいわゆる“私語”のことを言う。自発協同学習では「バズしましょう!」という提案が世話人や参加者から度々なされるが、要するに「私語をみんなで積極的にすることを推奨している」のである。
 「バズ学習がどうして必要になってくるのか?」については、すでに自発学習のところで述べた。自発協同学習はその名の通り、自発学習と協同学習の2場面の繰り返しによって展開していく。が、そのようなプロセスの中で、不測の事態として新たな難問が浮かび上がってくることや、世話人によって「○○に取り組んでください!」と、参加者が困惑するような課題が出されることがある。このような事態に直面すると当然ではあるが、グループの動きが硬直もしくは停止してしまうことも稀ではない。これを打開するための場に対する働きかけであり工夫が、バズ学習なのだ。
 世話人はあらかじめ「自発協同学習ではバズ(私語)することを推奨しているので、必要が出てきたらどんどん積極的にしてください」と伝えておく。そうすると上述のような硬直した場面において、「バズしましょう!」とか「みんなで相談しましょう!」という動きが生じやすいし、また、そのような動きがなかなか生じてこない場合には、世話人から「バズしたらどうですか?」と、その場に働きかけることも可能になる。
 人間が“生身で”動くとき、すなわち効果的な学習場面においては、どのような事態が発生するか、まったく誰にも予測不可能である。講義形式の教育を行なうのなら、ある程度は計画的に進めることも可能だろうが、自発協同学習の場合はそうはいかない。自発学習と協同学習の2場面だけでは、にっちもさっちもいかなくなることがあるので、いわば「潤滑油の役割を果たしている」のがバズ学習なのである。
 言うまでもないが、通常の学校教育では「私語は禁止されている」のが普通だ。理由はいろいろあるのだろうが、その一つは「生徒の私語を容認したら、教師が授業を計画通りに進められない」からであろう。カウンセリングや自発協同学習でもって人間の成長や発展を促そうと企てている私たちの立場から見れば、「計画通りに進めようとする」という行為自体が「生身の人間を抹殺しようとする動き」に他ならない。このことは教育界に限らず、現代社会に広く存在する大問題にもなってくるだろうが、とくに教育関係者にはこのあたりの問題について、よくよく考えてもらいたいと願っている。


優越感と劣等感からの解放

 以上、自発協同学習というものに対し、筆者なりのアプローチを試みてきた。が、このようなものを「言葉によって伝達するには限界がある」という気持ちも少なからずあるのが正直なところだ。それはカウンセリングというものを「言葉によって伝達するのは不可能である」という事実と同様だ。ゆえにカウンセリングでは、何よりも体験学習が重要視される。
 以下に「信川教育の本質をズバリ表現している」と思われる友田先生の論文を再録しておく。引用したのは『花は自分でひらく』(日本カウンセリング・センター刊 1979年)からの一部抜粋だ。これらの記述によって“自発協同学習”と仮に名づけられた何かを、そしてまた、“それ”に生涯をかけて取り組んだ信川先生と平野先生両名の“人”を感じ取ってもらえたら……というのが、現在の筆者の切なる願いである。
 老子は言う、「道可道、非常道、名可名、非常名」(道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず)と。孔子もまた言う、「人能弘道、非道弘人也」(人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり)と。仮に“カウンセリング”という言葉を「人間の飛躍・成長・発展を目指して行なわれる何らかの取り組みである」と定義するならば、友田先生にとっての蕉風俳諧も、信川先生や平野先生にとっての自発協同学習も、これらは方法や名称こそ異なれど、それぞれの実践者(=人)において紛れもなく「カウンセリングだった」と、筆者は確信している。

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 今さら申し上げるまでもないとは思うのですが、一般的な言い方をすれば、
  “教育は、意識的教育と無意識的教育とに二大別される”
わけで、“きわめて困難な教育上の諸問題”がほとんど後者、つまり“無意識的教育”に属することは、すでに周知のところでありましょう。“信川先生の教育”が、特にこの映画に現われている限りにおいて言えば、この“無意識的教育”に焦点を合わせていること、自明でありましょう。“自然の中の生活教室”に集まってきている子どもたちは、多かれ少なかれすでに、この“無意識的教育”の領域において、“阻害され傷害されている子どもたち”であります。信川先生は、多くの子どもたちが、というよりも“すべての子どもたちが”と言ってしまっても過言ではないくらいに、“教育”という名のもとに、不知不識のうちに阻害され傷害されている現実について、世のいわゆる“批判的言辞”を弄するようなことを何一つ語っておられません。しかし、それこそ“声無き声”で、
  “不知不識のうちに阻害され傷害されている子どもに、どうかもっともっと心を寄せてください”
と、“祈願をこめて”語りかけてくる信川先生の言葉を耳にするのは、決して私だけではないでしょう。
 “無意識的教育”――それは、現実の世界においては端的に、“優越感および劣等感”となって顕現してまいります。信川先生が、どんなに深く、かつ強く、この“優越感と劣等感の問題”に心を寄せておられるか、そしてまた、ご苦心・ご苦労を重ねておられるか、ということもまた、誠実かつ敏感な視聴者の方々によって、容易に感得されるところでありましょう。誤解されることを恐れず、思い切って単純化して言えば、この映画に関する限り、
  “信川方式の焦点は、不知不識のうちに身につけてしまっている優越感や劣等感から子どもたちを解放するところにある”
と言ってしまってもよいのではないでしょうか?(中略)
 “温故知新”は、決して決して言葉ズラで片づけられてはならないでしょう!! “自然科学”の分野において、西欧の科学者たちが東洋古来の思想に興味を抱き関心を寄せ始めている傾向は、決して表面的な動向ではなく、“物理学の秩序を書き換える必要がある”(ロンドン大学教授 デビッド・ボーム)という見解をさえもたらしているとのこと。門外漢の私には、近代物理学の実相は判りようがありませんけれど、“古い古い東洋思想が最初の科学の基盤になるであろう”動向は、十分に肯けるところであります。“優越感の解消”と、“劣等感からの解放”と、――現実的・方法的に、この問題に焦点を合わせているように思われる“信川先生の教育”は、その真実相においては実は、“意識”とか“無意識”とか、あるいは“優越感”とか“劣等感”とか、というような次元をはるかに超えた次元で展開されている、“きわめて古くて最も新しい教育である”と言ってよいのかもしれません。浅学非才にして怠惰な私には、とうていそこまで立ち入ることができませんけれど、存分に立ち入り検討する価値を秘めていることだけは、心ある人々の感得するところではないでしょうか!? 
(引用文献:友田不二男 1979年 「“信川先生の映画”完成に寄せて」『花は自分でひらく』日本カウンセリング・センター P.8-10)

機関誌カウンセリング研究VOL.24 日本カウンセリング・センター P.46-51 より転載

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カウンセラー・スポンジ説
文:山本伊知郎(2009年7月16日)


 クライエント・センタードの立場におけるカウンセラーの機能と役割とは、結局のところ何なのだろうか? 突き詰めるとどうなるのか? ロジャーズが言うように「純粋な嘘偽りのない受容的・応答的・共感的な態度で接し続ける人間関係」を経験することによって、それがクライエントの側に「人格の変容もしくは人間の成長をもたらす」のだろうか?
 このあたりの問題、すなわちカウンセリング関係の核心部分に関する現在の私の考えを整理してみようと思う。それが表題の「カウンセラー・スポンジ説」という言葉で象徴されているのである。

 読者の中には、面接記録全部をありのまま文字にしたもの(逐語記録と呼ばれる)を目にしたことがある人や、あるいは面接の録音テープを聞いたことがある人も少なくないと思う。
 これらの記録を素材にした講座や学習会の場面で、「カウンセラーがほんとうに“ただ話を聞いているだけ”でクライエントが変化し成長する」という事実を目の当たりにし、驚きとともに「不思議だなあ」という感想を漏らす人は決して少なくない。
 かくいう私も初めて面接の録音テープを聞いたとき、「なあんだ。カウンセラーって特別なことは何もしていないじゃないか」と思ったし、「こんな程度のことだったら、自分にも簡単にできるだろうな」と思ったものだった(苦笑)。
もちろん現在の私に言わせるならば、「カウンセラーが“ただ話を聞いているだけ”なんて思われたら、とんでもない!」と反論したくなるが。実際1時間の面接が終わるとグッタリして、その場にへたり込んでしまうこともあるくらいだ。要するにカウンセラーは面接中の1時間、「膨大な精神エネルギーを使用して、全心身を最大限に機能させているのだ」と言ってよいだろう。
 が、このような表現で「カウンセラーが何をしているのか?」を実感的に理解できる人はおそらく稀に違いない。そこで以下に“カウンセラーがやっていること”の具体を記しておくことにする。

 よく知られているように(かどうか、本当はわからないが)、クライエント・センタードと呼ばれる立場のカウンセリングでは、5つの中核となる技法が使用されている。1.単純な受容 2.再陳述 3.反射 4.明確化 5.場面構成 の5つだが、このうち“場面構成”は「効果的なカウンセリング場面、もしくはカウンセリング関係を作るために使用される技術」なので、ここでは論旨の関係上ちょっと脇に置かせてもらう。残り4つの技法のうち、“再陳述”は“単純な受容”の高等テクニックであり、“明確化”は“反射”の高等テクニックである、と言ってよいだろう。
 そうすると、カウンセラーはカウンセリング場面において「受容と反射を繰り返しているだけである」と表現して差し支えないと思う。その行為がハタから見れば、“ただ話を聞いているだけ”に見えてしまうのだろうが、仮にそのように見えたとしてもまあ仕方がないかなあ……という気もする。
 もちろん、「受容と反射を繰り返しているだけ」というその“受容”や“反射”をカウンセラーは、「この人にしてみれば、ほんとうにそうなんだろうなあ。そういう気持ちになるだろうなあ。なるほどなあ」というふうに経験しながら応答しているのであって、決して“口先だけ”で言葉を伝えているのではない。このあたりのことは、よく知られている“ロジャーズの3条件”――受容(無条件の肯定的関心)、共感的理解(感情移入的理解)、自己一致(純粋性)――でもって、カウンセリング場面におけるカウンセラーの態度条件が端的に示されている通りだ。

 さて、クライエントの側は、上述の態度条件が満たされているカウンセラーから「受容と反射が繰り返される」という場面を、いったいどのように経験しているのであろうか?
 私の知人でありカウンセリングを学んでいる仲間の一人は、自分のクライエント経験を次のように述べていた。
 「私が胸の内にある悩みや今の気持ちをポソっと言うと、カウンセラーはそれをシュッ…と吸い取ってくれた。そうすると別の何かが浮かんできてそれを言うと、それもまたシュッ…と吸い取られた。私がどんなことをどんなふうに話しても、それらはシュッ…シュッ…と、ことごとく吸い取られていった。カウンセラーはまるでスポンジのようだった」と。
 クライエントの多くは胸の内にたくさんのいろいろな思いを抱えており、いわば“胸がいっぱいの状態で”カウンセラーのもとを訪れる。カウンセラーはそれらの思いや考えに真摯な態度で耳を傾ける。そうするとクライエントは、あたかもそれらが“吸い取られた”かのように経験されるのであろう。そうするとどうなるのか?
 ここから先は仮説になるが、クライエントの心の内にあるものが次から次へと吸い取られたならば、心の中に“何らかの空間(スペース)”が生まれるのではなかろうか? その空間が心の働きをより機能させ、その機能によって“洞察”とか“気づき”などの重大な意味のある出来事が起こり得るのではないだろうか?

 諸富祥彦氏(明治大学教授)はこのあたりの問題について、
『我々が他人に悩みを聞いてもらい、そこで何らかの「気づき」を得る時、我々の注意はむしろ、(聴き手にではなく)専ら自己の内面に向かっているように思われる。我々が一人で思い悩む時、物理的には一人であっても、(比喩的な表現を使えば)心の内側には多くの「自己ならざる自己としての他者」が存在している。そしてそれらの人々の目を気にしたり、何かを言い聞かせられたりしている。つまり、物理的には一人であっても心理的には「ひとりきり」になれないでいるのである。一方、自分の悩みを共感的に理解してくれる聞き手がいる時、我々は、心の中に存在している複数の他者を、言わばいったん相手に「預ける」ことができ、それらから解放され、何者にも邪魔されずに、自己の内面の探索に専心することができる。つまり、心理的に「ひとりきり」になることができる。カウンセリングとは、他者からの共感的理解を得て、そこで初めて内面的に「ひとりきり」になりきることができる、という逆説的な関係なのである』(『“真空”における人格変化』カウンセリング研究VOL.13 P.64 日本カウンセリング・センター 1994年)
 と述べている。要するに「クライエントがひとりきりになれる」というところにカウンセリング関係の意味がある、というわけだ。

 このような考え方は、現在の臨床心理学においてはあくまでも“仮説”に過ぎず、いわば“探求の方向を示している”に過ぎないが、重大な示唆をたくさん含んでいるように筆者には思える。
 私が師事した友田不二男氏は、「成長は現実の環境や人間関係の中で起こったことがないんですよ。それはおそらくひとりぽっちの黙想のようなもの、いわば“真空の中で”起きるんです。宗教的な神秘主義者は、長い間ひとりで黙想しますよねえ。ですから、ひとりぽっちでいる間に何かしら力を強化するようなことがあるに違いないんですよ」と述べたブライアン(仮名)と名付けられたクライエントの発言を支持し、「これはまことに重大な意味を持つ洞察的な表現もしくは提言である。人間の真相はそうでしかあり得ないであろう」と述べ、「さらに言えば、ブライアン氏が発した“真空”(vacuum)は、禅における“無”もしくは“空”と同一視できると思う」と述べている。(『ロジャーズ全集第9巻』P.215、P.236、P.262 岩崎学術出版社 1967年)

 もしも友田の言う通りであるならば、カウンセリング関係においてクライエントが経験する心の内の“空間(スペース)”は禅の“無”や“空”にそのままつながってくるし、“ひとりぽっちの状態”になることは“座禅”や“瞑想”にそのままつながってきそうである。
 となると、「カウンセリングと呼ばれている“何か”は、臨床心理学よりもむしろ宗教の世界(禅仏教など)との関連性のほうが強い」ということになりそうだが、果たしてどうなのか?
 今後も上述した見解を手がかりにして、臨床活動等の実践と経験によって確かめながら、自分自身の歩みによってカウンセリング理解をさらに深めてゆきたいと思っている。

<参考文献>
・『“真空”における人格変化』カウンセリング研究VOL.13 P.64 1994年
・『ロジャーズ全集第9巻』P.215、P.236、P.262 岩崎学術出版社 1967年


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クライエント中心療法の概略
文:山本伊知郎(2008年8月20日)


 最近の経験だが、「日本における昨今のカウンセリング界の動向を耳にするにつれ、なんとも言いようのない嘆かわしいような気持ちに包まれていった」という私的な経験があった。
 カウンセリングの歴史を紐解いてみると、確かに40〜50年前と比べたら“カウンセリングという言葉”は広く一般に普及している。しかし、その事実は「カウンセリングが成長・発展してきた」ということを証明しているのだろうか? 筆者はこの現状を「どうしても肯定的に見ることができない」ばかりか、むしろ「後退・衰退しているのではないか?」という疑問すら抱いてしまう。
 公的な機関が行なっているカウンセリング活動に関して言えば、経済の原理・原則である“費用対効果”が強く求められているらしい。平たく言えば、「カウンセラーはできる限り早く効果を上げなければならない」ということだ。ゆえに、他の療法と比べて時間がかかる“クライエント中心療法”は敬遠されてしまうらしい。

 “現に生きている生身の人間”は、決して決して“経済の原理・原則”で動いている(生きている)わけではない。個人個人は誰もがみな、他者とは異なる自分のペースで成長・発展の“プロセスを生きている”のである。それが人間性、すなわち性(さが)である。したがって、人間の成長や発展や教育の分野に“経済の原理”を適用しようと企てること自体が「大間違いである!」と筆者は主張したい。
 戦後、日本の経済は目覚しい発展を遂げた。しかし、経済と人間とはまったく別物である。経済が成長したのと同じやり方で“人間の成長を促す”ことなどできるはずがない。この問題はカウンセラーだけでなく、広く教育関係者たちを含めて熟考してほしいと思う。
筆者に言わせれば、「世間の教育関係者たちの大半は、そんなことすらわからないのか? 少なくとも“人間というもの”に対して、もっと疑問を持ってほしいのだが……」となる。これが冒頭で述べた「嘆かわしいような気持ち」の中身だ。

 というようなプロセスが筆者の心中に生じていることもあり、「クライエント中心療法の立場や考え方を、もっと明確に示してみたい!」という思いに至った。現在のカウンセリング業界で評されている通り、本当に「クライエント中心療法は時代遅れ」なのだろうか? 読者自身によってもう一度、再検討してもらえたら幸いである。





【クライエント中心療法の歴史】

 クライエント中心療法を創唱し創案したのは、カール・R・ロジャーズ(1902〜1987年)である。ロジャーズが実践したカウンセリングは、それ以前に行なわれていた伝統的・一般的形式のカウンセリングとは「アプローチ法が著しく異なっていた」という意味で、カウンセリング界に革命をもたらした。その影響の大きさは計り知れず、1982年に行なわれたアメリカ心理学会による調査「20世紀にもっとも影響の大きかった心理療法家」では、第1位に選ばれたほどだ。
 ロジャーズはその生涯を通じて「カウンセリングを発展させた」人物でもあった。彼の考え方や立場がどのように変化していったのか、以下にその概略を示してみよう。


1.非指示的療法(Non-Directive Therapy)
 非指示的療法の時代においては、ロジャーズは、繰り返し、感情の反射、明確化などの、カウンセラーの技術を提唱したが、「非指示的療法は単なるオウム返しのみで成立する」という誤解が広まったため、名称をクライエント中心療法と改め、カウンセラーの態度条件を重視するようになった。

2.クライエント中心療法(Client-Centered Therapy)
 クライエント中心療法では、カウンセラー側の知識の量や権威は不必要とされ、それよりも、カウンセラーの態度、すなわち、無条件の肯定的関心、共感的理解、自己一致をどう実現するかが重視される。カウンセラーの態度条件を満たすためには、カウンセラー自身の自己実現が求められる事となる。さらに、後期のロジャーズや現在のロジャーズ派においては、プレゼンス(人がそこにいる事)という概念が重視されるようになった。

3.パーソンセンタードアプローチ(Person-Centered Approach:PCA)
 後年のロジャーズは、個人カウンセリングよりも、エンカウンターグループ、エンカウンターを通した世界平和の実現へと関心を移し、それに伴い、クライエント中心療法からパーソンセンタードアプローチへと名称を変更した。
(以上、フリー百科事典・ウィキペディアより引用)


 後年のロジャーズは、パーソンセンタードアプローチを用いた人種間、国際間、異文化間の緊張緩和への取り組みが活動の中心となっていった。北アイルランドのベルファストにおけるプロテスタントとカトリックの葛藤の緩和(1973年)、オーストリアのルストにて中央アメリカ諸国の政治家を招いて行なわれた緊張緩和のためのワークショップ(1985年)、南アフリカの人種差別をめぐる黒人と白人の対話(1986年)、などを次々と行なった。
 その活動は世界的に評価され、1987年(ロジャーズが亡くなった年)にはノーベル平和賞にノミネートされていたほどだった。






【カウンセリングとは?】

 ロジャーズは著作『Counseling and Psychotherapy』(1942年)の中で、基本的仮説として、カウンセリングを次のように定義している。

 『効果的なカウンセリングは、クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする、明確に構成された許容的な関係によって成立するものである』
(ロジャーズ全集2 カウンセリング 佐治守夫編 友田不二男訳 P.20)

 と。訳文の関係上、意味を解するのが非常に難しい文章だと思われるので解説を加えたほうがいいだろう。『Counseling and Psychotherapy』というのは、日本で最初に出版されたロジャーズの著書
(邦題『ロージャズ 臨床心理学』友田不二男訳 1951年)だが、これを翻訳した友田不二男はこの部分について以下のような解説を加えている。

 この私の訳文には、言語的な表現上、決定的な誤解がもたらされる危険が包含されている。多くの読者は「クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする」のはカウンセラーである、と解するかもしれない。しかし、もしもそのように解するならば、それは真実を見誤るものであると言ってよかろう。なぜならば、臨床場面をあるがままに見つめるとき、「クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする」のがカウンセラーであるという証拠は、ほとんど得られないからである。詳細はいずれ後述するが、私自身の経験を通して、現在の私に決定的に言い得るのは、クライエントがそのような転換を達成する過程において、カウンセラーと話し合う経験があった、ということだけである。
 ロジャーズは言っている。

 このアプローチは、成長の経験として、セラピィの関係そのものに、重きを置いている。この新しい実践においては、セラピィの話し合いがそれ自体、成長の経験なのである。
(ロジャーズ全集2 カウンセリング 佐治守夫編 友田不二男訳 P.35)

 すなわち、これをわかりやすく言えば、「クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする」のは、カウンセラーではなく、カウンセラーとクライエントとの関係(counselor-client relationship)であり、クライエントがカウンセリングの場面(counseling situation)を経験することそのことである、と言ってよかろう。

 われわれが経験を積んで前進してゆくにつれて、ある特定のケースにおけるセラピィの動き(therapeutic movement)の確率は、基本的には、カウンセラーのパーソナリティに依存するのでもなければ、また、カウンセラーの技術に依存するのでもなく、また、カウンセラーの態度に依存するのでもなく、これらのすべてが、その関係においてクライエントにより経験されるされ方に依存しているということが、きわめて明白となってきている。
(ロジャーズ全集3 サイコセラピィ 友田不二男編 P.87)

 このロジャーズの言葉は、端的に、この間の事情を提示しているであろう。しかも、このロジャーズの見解は、私自身の臨床経験(clinical experience)ともまた、最高度に符合するように私には思われているのである。
 このことは、ロジャーズの思考と方法につながる立場におけるカウンセリングを理解するにあたり、どんなに強く肝銘されてもされ過ぎることはないであろう。また、これを逆に言うならば、もしもこの点に対する認識なしにロジャーズを解するならば、とうてい、真の理解を達成することができないであろう。もちろん、これは、ロジャーズの思考と方法とが絶対に正しいという意味においてではなく、言わば、ロジャーズを理解する基本的要点として私見を提示しているわけであるから、その点に対する誤解のないことを心から望むのであるが、それは一応それとして、少なくともロジャーズの思考と方法につながる立場におけるカウンセリングに関する限りでは、この点に対する認識を十二分に深める必要があるであろう。
 「クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする」という表現は、誤解を招くいま一つの危険を包含しているように私には思われる。なぜならば、この表現からすれば当然、クライエントは、カウンセリングの場面を経験することによって「自分というものについての理解を達成できるようにする」ようになり、そのような自分というものの理解にもとづいて「新しい方向をめざして積極的に歩み」始めるようになると解されるであろうが、臨床場面の実際においては、クライエントが自分というものについての理解を達成できるようにしたと思われるような現象もしくは徴候が全然見当たらないにもかかわらず、あるいは時として、自分というものの明確な理解を達成できない不満や不足を明白に表明しているにもかかわらず、現実の生活場面におけるクライエントの行動が明白に変化し、改善されている場合が決して少なくないからである。もちろんクライエントが、その自分というものの理解を言語的に表明するかしないかということと、その自分というものの理解を達成しなかったかどうかということとは、必ずしも一義的に同一視できるものではない。したがって、その自己理解を言語的に表明しないにもかかわらず、クライエントの内面においてはそれが達成されている、ということも充分に考え得ることではある。
 しかし、だからといって、たとえ表現はされなくとも内面的には達成されていると断定するならば、それは独断のそしりを免れないであろう。ロジャーズ自身、この種の事実に言及し、「たとえクライエントが、セラピィの進歩の特質と考えられている諸要素をほとんど外部に現わしていなくとも、セラピィは前進しうる、ということを認めざるを得なくしている」
(ロジャーズ全集3 サイコセラピィ 友田不二男編 P.217)と述べているが、このこともまた、充分に認識されるべきであろう。もしもこの「自分というものについての理解を達成できるようにする」ことを意識的な水準における「理解」にのみ限定するならば、単に臨床場面の事実に対する認識を誤るばかりでなく、経験の乏しいカウンセラーをして、せっかく効果的に進展していたセラピィの過程(therapeutic process)を破壊してしまうようにすることさえもあるであろう。
 以上の詳細は、本書の全体を通して記述されるであろうが、差し当たってそれらを要約的に記述するならば、次のように提案できるであろう。すなわち、
 「効果的なカウンセリングとは、クライエントがカウンセリングの場面を経験することにより、自分というものの理解を表明すると否とにかかわらず、新しい方向をめざして積極的に歩み出すようになるように援助するカウンセラーの活動である」と。
(カウンセリングの技術〜クライエント中心療法による〜 友田不二男著 P.6〜9)


 余談になるかもしれないが、「ロジャーズは、“クライエント”という言葉に特別な意味を含ませて使用していた」ということも注目に値する。
 ロジャーズは、それまで伝統的・一般的に使用されていた“カウンセリー(カウンセリングを受ける人)”、“サブジェクト(被検者)”、“ペイシェント(患者)”、“アナリザンド(被分析者)”という用語を使用しなかった。なぜなら、ロジャーズにとっての“クライエント”は、「自立的な人間」を意味していたからだ。さらに言うなら、ロジャーズは基本的に「人間というものは、本来自立的な存在である」という人間観を保持していたのである。……と理解していいだろう。

 なお、友田不二男は“クライエント”という言葉を次のように定義している。

 『つまり、この「クライエント」という言葉で意味されている人間は、端的に言えば、「なんらかの問題なり課題なり困難なりに直面して、なんらかの援助を求めるために、積極的かつ自発的に来訪もしくは来談するが、しかし決して、最終的・究極的な意味において、自分の責任を他人に引き渡してしまうようなことがない人」なのであります』
(自己の構造 友田不二男著 P.14)

 と。ここで問題にした“クライエント”という用語も、今日では「その本意がほとんど理解されないまま、一般的な用語として浸透している」というカウンセリング界の現状を筆者は見聞きしているので、あえて言及させていただいた。





【カウンセリングの技術】

 効果的なカウンセリング場面、もしくは関係を創造するために必要不可欠な要素として、カウンセラーの技術と態度の二つがあるが、まずは技術を取り上げてみよう。以下に引用するのは、『非指示的療法』(友田不二男著)の一部を抜粋したものである。


1.技術の意味

 まず第一に申し上げておきたいことは、「非指示的」ということとは関係なしに一般的に、「技術」とか「方法」とかいう言葉を使用する場合、多くの人々がきわめて簡単に、もしくは安易に、「人間を抜きにしてしまう」ということです。しかし、それにもかかわらず、「人間を抜きにしたところ」には、今日なお、いかなる分野のいかなる「技術」も「方法」も存在し得ない、ということです。なるほど、わたくしども人間は、科学を発達させることによって、いわゆる「科学的技術」もしくは「科学的方法」から、できるかぎり「人間を排除する」ことを念願し企てつつあります。しかし、「念願し企てつつある」ということは、それがすでに「達成されている」ということでは決してありません。今日なお、どのような「科学的技術」も、いかなる「科学的方法」も、依然として「人間を抜きにして」は存在していないのであります。のみならず、「科学的技術や方法」が科学化されればされるほど、それに関与する人間の知性化と高度化が要求され要請されているのが、現実の事実でありましょう。
 例えば、大学の自然科学関係の教室をのぞいてごらんなさい。いわゆる「実験の大家」と呼ばれる専門家がいるものです。これはずいぶん奇妙なことで、条件を同じにすれば、いつ、どこで、誰がやっても同じ結果がもたらされるところに、実験の意味と価値とがあるわけでしょう。そうであるならば、いったいなぜ、「実験の大家」「実験の名人」が必要なのでしょうか? 「実験の名人」が存在するということは、「いつ、どこで、誰がやっても」という実験そのものの意味と価値とを否認していることではないでしょうか? 少なくとも観念的には、まことにその通りであります。しかし、これを「奇妙」と感ずるのは、わたくしどもが、なんらかの観念――実験というものは、同じ条件の下では、いつ、どこで、誰がやっても、同じ結果がもたらされるべきであるという考え――を先行させるからであります。現実の事実をありのままに見るならば、「実験の大家がいる」ことそのことは、単に事実であるばかりでなく、当然でさえもあります。なぜならば、今日なお、「人間が参加していない実験」なぞあり得ないからであります。
 このことは、医療の分野につながるわたくしどもの見聞や経験を省みるならば、よりいっそう明らかでありましょう。「診断の仕方」や「手術の方法」は、おそらく教科書にしたためられているでしょう。しかし、教科書に書かれているところを知れば、それで「技術」や「方法」が身につくかというと、そうはまいりません。のみならず、実際には、いわゆる「ヤブ医者」「ドテ医者」から「手術の上手な先生」や「名医」にいたるまでが存在し活動しております。つまり、「教科書的な公式化された技術や方法」は、単に「知られる」ことによって「技術は方法」とはなり得ないばかりでなく、それが「人間」と結びつくことによって、「効果的な技術」となったり「無力な方法」と化したりしているのであります。いうまでもなく、このような事実は、このような実状の修正と改善とを要請し物語っていることでありますが、と同時に、他方、このような事実のゆえにこそ「技術」とか「方法」とかいう言葉を使用する場合、決して「人間」を排除してはならないことを、端的に警告しているものでありましょう。
 見方によれば、このことは、「人間が参加する」度合いが増大すればするほど、重要な意味を持ってくると言ってもよいでしょうか? 等しく「技術」とか「方法」とかいう言葉を使用しても、物とか無生物を対象とする場合のこれらの言葉の現実的・実際的意味は、生物や生命を対象とする場合とは、人間の側において異なっているでしょう。また、等しく生命といっても、いわゆる動物の生命を対象とする場合と人間のそれとの場合では、天地の隔たりがありましょう。ましてや、これらの言葉が、人間の精神とか魂とかに結びついて使用される場合、これらの言葉を理解し使用する仕方如何によって、著しい差異もしくは変化をさえもたらすのであります。カウンセリングとかサイコセラピィとかいう言葉で呼ばれている分野の活動に関しては、このことは、どんなに強調されてもされすぎることはない、といってよいでしょう。
 そこで、第二に申し上げたいことでありますが、いわゆる「非指示的療法」に関して言えば、その「技術」もしくは「方法」は、単にそれを使用もしくは適用しようとする人、すなわち「非指示的カウンセラー」もしくは「来談者中心療法家」と密接不可分に結びついているばかりでなく、その「人」の進歩・発展・生長とともに、不断に変化し改善されてゆくということであります。つまり、基本的な意味においては、「固定化され公式化された非指示的技術」などというものはあり得ず、仮にあり得たとしても、それを使用もしくは適用しようとする人自身が、まさしくそれを使用もしくは適用できるような状態になっていないならばそれらの「技術」や「方法」は、何の役にもたたない、ということであります。(中略)
 最近、きわめてしばしば筆者は、「最初は非指示的方法でやって……」というような言い方を、直接・間接に耳にします。多くの場合、このような言い方で使用されている「非指示的方法」とは、「カウンセラーのほうからは何も言わないでもっぱらクライエントに話をさせること」を意味しているようですし、そのように解すれば、このような言い方をするゆえんと、このような言い方をする状態では、とてもカウンセラー自身の身も心も耐えられなくなって、途中からやり方を変えずにはおられなくなるであろうということも、充分に了解できるのであります。が、それはそれとして、このような表現に接するとき、筆者は、つねに、ロジャーズの次の言葉を思い出しながら、このような言葉を吐かずにはおられなかったであろうロジャーズの内的経験に思いを寄せるのであります。すなわち、
 「われわれの経験によれば、ある一つの“方法”を利用しようとしているカウンセラーは、この方法が真に自己自身の態度に沿うているのでなければ、不成功になり終るのである。他方、その態度が治療を促進する型のカウンセラーは、部分的に成功するにすぎないであろう。なぜならば、その態度は適切な技術や方法によって不適当に遂行されるからである」
 と。まことに、「非指示的技術」もしくは「来談者中心療法」という言葉で一般的に呼ばれている「技術」もしくは「方法」は、それらを使用もしくは適用しようとする「人」と結びつくことによって、単に「不適当な技術」になるばかりでなく、「まったく非効果的な方法」ともなり、逆に、「技術」もしくは「方法」としては十二分に公式化されていようとも、というよりはむしろ、公式化されているそのゆえにこそ、カウンセラーその人が、身動きできなくなることさえもあるのであります。端的に言えば、いわゆる「非指示的技術」はカウンセラーその人が「人間というものをどのように考えているか」ということと、きわめて密接に結びついていると言ってよいでしょう。それはただ単に意識的にそのような考え方をしているということではなくて、行動的に、「人格の意義と尊厳」とを感じて動いている人々と結びつくことによって、真に効果的となり得ると言ってよいでしょう。
(非指示的療法 友田不二男著 P.8〜11)


2.単純な受容

 いわゆる「非指示的技術」において、もっとも頻繁に使用されているのは、「単純な受容(simple acceptance)」という言葉で範疇化されている技術でありましょう。もちろん、一口に「非指示的カウンセラー」といっても、厳密な意味においては決して「同じ人」ではなく、したがって、この「単純な受容」にしても、きわめて頻繁に使用する「非指示的カウンセラー」もおれば、またそれほどでもない人もおるわけですが、全体的には、「もっとも多く使用されている技術」であるといってよいでしょう。
 この「技術」は、「技術」という言葉を使うと誠の大ゲサなように思われるかもしれませんが、クライエントの話に耳を傾けながら、「ウムウム」「ハァハァ」「ハイ」というような表現で応じてゆくことであります。それは、外見的には、「うなづく」とか「あいづちをうつ」とかいう言い方で呼ばれている応じ方で、日常の会話にもたえず使われておりますが、外見的・形式的には日常会話の場合と同じように見えながら、しかし、本質的にはかなり異なっていると言いたいところは、それが、単なる「あいづち」や「うなづき」ではなく、まさしく「受容」という言葉で表現されるような「何か」が、その「ウムウム」「ハァハァ」にこめられていることであります。
 「受容という言葉で表現されるような何か」とはいったい何でしょうか?――まことにこれは、「非指示的技術」の中核をなすものである、といっても決して過言ではないような「何か」であり、それだけにこれを、単純な解説で紹介し伝達することが、単に困難であるばかりでなく、危険でさえもあることがありますが、専門的な論議に立ち入ることはしばらくおき、ここでは、クライエントの態度や言葉づかいや話の内容などについて評価したり批判したりすることなく、現にあるがままに受け容れることである、と申し上げておきましょう。(中略)
 クライエントの表明を、評価したり批判したりすることなく、現にあるがままを尊重し受け入れることができる状態においての「ウムウム」や「ハァハァ」は、クライエントが語っていることをそのままに理解していることを、もっとも単純かつ端的に、クライエントに伝達することができ、クライエントをして、さらに自由に、思っていることを思っているままに表現してゆくことができるようにしている、と言ってよいでしょう。きわめて鋭敏なクライエントになると、この「ウムウム」「ハァハァ」の中においても、アクセントの違いや表情の感じを感じとるものなのであります。
(非指示的療法 友田不二男著 P.11〜13)


3.再陳述

 カウンセラーが、クライエントの陳述をそのまま受け取り、理解し、そして受け容れていることを、いわゆる「単純な受容」よりはもう少していねいな形式にしたのが、この「再陳述」であります。これは、クライエントが話したことや話の内容を、できるだけ忠実に繰り返して言う言い方であります。もちろん、「繰り返して言う」といっても、それは決して単なる「オームガエシ」ではなく、――未熟なカウンセラーですと、それが、文字通りに「オームガエシ」になって、魂の抜けた発声機からの発音になってしまうのですが――クライエントの発言を一言半句なおざりにせず、心をこめて耳を傾けているという、そういう姿もしくは状態において、しかもできるかぎり忠実に、クライエントが使った言葉をそのまま使って発言し応答するのであります。(中略)
 少しく専門的な用語を使うと、この「思いをこめて」ということを「共感的理解」と呼んでおりますが、それは、「今ここにいる、この一人の人格の、まさしく今の状態であるならば、本当に、今、語っているとおりなんだろうなあ!」という、そういう気持ちで、クライエントの表現をそのままに理解する仕方なのであります。そして、そのような理解に立っての「再陳述」は、クライエントの側に、いわば、「自分を正しく理解してくれた人」そして、これからも「本当に正しく理解してくれるであろう人」として、カウンセラーを位置づけることにより、よりいっそう「真実を語る」方向へと、クライエントが動き出すという結果を、もたらしてくれるのであります。
(非指示的療法 友田不二男著 P.13〜14)


4.反射

 いわゆる「非指示的方法」の中で、「非指示的方法」を端的に特色づけている技術の一つは、この「反射」であるといってよいでしょう。「反射」という言葉は、もともとは“reflection”という原語を邦訳したもので、この訳語が妥当かどうか、異論もあるところでしょうが、それはそれとして、「直接に情緒の王国に働きかけることは不可能である」というフロイドの見解にもかかわらず、それを可能にした技術の一つは、この「反射」であるといってよいでしょう。定義的な言い方をすれば、この「反射」は、クライエントが表明した感情もしくは気持ちを、そのまま言葉にしてクライエントに返してやるやり方であります。もちろん、厳密にいえば、「クライエントに返してやる」という言い方は妥当ではありませんし、しばしば誤解を招くことにもなる言い方ですが、今は一応、このように申し上げておきましょう。
 模型的・形式的な言い方をすれば、この「反射」は、例えば次のような形になります。
 クライエント「実際もう、イヤんなっちゃいますよ」
 カウンセラー「ウムウム――イヤんなっちゃう」
 クライエント「ええ――もう、明けても暮れても文句ばっかりですものね」
 つまり、「イヤんなっちゃいますよ」というクライエントの表明――気持ちの表明――をそのまま言葉にした「イヤんなっちゃう(んですね)」というカウンセラーの応答が、ここでいう「反射」なのであります。いえいえ、「反射なのであります」と言うと誤解の種になりましょう。もっと正確に言えば、「“反射”という言葉で分類されている技術なのであります」ということです。(中略)
 「きれえだね」と言えば「きらいでしょうねえ」と応じ、「イヤだ」と言えば「イヤなんですね」という、相手が表明した気持ちや感情をそのままに応ずるのがこの「反射」になるのですが、「表明した感情や気持(あるいは気分)」に応ずるということは、「表明しない気持(あるいは気分)や感情」には応答しない、ということも意味しております。わたくしたちは、日常、他人と話し合っている時、しばしばこの「表明していない気持」に反応してしまって、そのために相手の感情を傷つけたり、あるいは相手との関係をこじらせたりしてしまいます。「そういう言い方をするのは、そもそも反感をいだいているからだ」とか、「ああいう言い方をするところをみると、彼はやる気になってるな」とかいうように、とかく、相手の「表明されていない感情」に応じて「そんなつもりで言ったんじゃあありませんよ」「そんな見方されたんではまことに心外だ」と言われたり、あるいは「相手の表明していない感情」を推測したり判断したりしながら、その推測や判断がたしかな事実ででもあるかのように思い込み、次の事態においてそれが違うと、相手を非難したり、相手に対して不信の念をいだいたり、あるいは逆に、相手から非難されたり、不信の念をいだかれたりするものです。このような現実の生活経験を注意深く反省・検討してみるならば、「表明された感情」に応答するということ、逆に、「表明されていない感情」に応答するということが、次にどのような事態もしくは関係をもたらすか、かなりの程度まで理解していただけることと思います。が、ここでいま一つ考えておかなければならないのは、「表明する」あるいは「表明した」という言い方がなされる場合の実際でしょう。
 「表明する」もしくは「表明した」ということ――もしも言葉で、ハッキリそうと言われるならば、問題はありません。「オレはいやだ」「てんでおもしろくないや」「愉快だなあ」「やってみたいなあ」などと、言葉にして「表明」されるならば、容易に理解されますが、人間の気持や感情は、かならずしもつねに、言葉でハッキリと語られるものではありませんし、また、語りきれるものでもありません。俗に、「目がものをいう」という言葉があり、あるいは「なんだ、そのフクレッツラは」とか「態度が悪い、態度が」という言い方がなされているように、目つきや表情や態度で「気持を表明」することもしばしばあるわけです。このような場合を考えますと、カウンセラーは、単に言葉で表明された気持だけでなく、目つきや表情や態度で表明されている気持を敏感に感じとり、理解し、その理解したところを的確な言葉にして「反射」しなければならないわけです。のみならず、このような場合の「反射」を的確になし得るようになるためには、相当の経験と熟練とが必要になってまいります。なぜならば、それは、へたをすると、「表明されていない感情」に触れる危険性をはらんでもいるからです。さらに言えば、目つきや表情や態度で表明されている気持もしくは感情を言葉にして反射する場合には、ややもするとそこに、カウンセラーの主観的な感情が入りこんで、それだけクライエントのありのままの気持もしくは感情からズレてしまったり、カウンセラーが未熟な場合には、ズレるどころか、歪曲してしまったりもしかねないからです。(中略)
 まことに、わたくしどもは、わたくしども自身の中の「何ものか」によって、ハッキリと言葉で表明された感情でさえも、そのままには理解できにくいものです。ましてや、目つきや表情や態度による表明に対しては、単に理解しきれないばかりでなく、歪曲してしまうことさえ少なくありません。この歪曲をできるだけ少なくするためには、歪曲をもたらすカウンセラー自身の中の「何ものか」を解消することが肝要になるわけです。が、それはそれとして、ここでは、「表明した気持や感情」あるいは「表明している気持や感情」というと、いかにも簡単なようでいながら、この「表明」ということも、現実の人間の動きとしては、かならずしも単純どころではないことを、理解していただければと思います。
(非指示的療法 友田不二男著 P.14〜17)


5.明確化

 前節に述べた「反射」を、いわば、よりいっそう高度化すると、「明確化」という言葉で分類されている技術になります。これは、もともとは、“clarification”という原語を邦訳した言葉で、訳者によると「明瞭化」という言葉を使ったりもしております。定義的な言い方をすれば、クライエントが、自分の気持もしくは感情を適切な言葉で表現できず、何とかして適切に表現しようとしていたり、あるいは、適切な言葉を見つけようとしているような場合に、カウンセラーのほうで適切な言葉でまとめて反射したり、あるいは、適切な言葉を見つけて反射したりする技術であります。すでに申し上げたように、また、多くの人々が日々経験しているように、人間の気持・感情は、そのものズバリの的確な言葉にすることがむずかしく、充分な言葉を持ち合わせていない――という点では、人間みなそうですが、特に子供とか、表現力の弱い人になりますと、カウンセラーのほうで援助してやることが、単に必要であるばかりでなく、きわめて重要な仕事にもなってくるわけです。そして、それだけに、反面、前節に述べたような危険性が忍び込んでもまいります。なぜならば、もしもカウンセラーが、クライエントの気持もしくは感情を「ありのまま」に理解し受容していないならば、カウンセラー自身の主観的な感情によって誤解したり歪曲したりしながら、しかもカウンセラー自身はそれに気づかないで、アッパレ「明確化」しているつもりになりやすいからであります。(中略)
 前節で述べたように、目つきや表情や態度で表明される気持もしくは感情を「反射する」のには相当の熟練を要するように、あるいはそれ以上に、この「明確化」は、誰よりもカウンセラーその人の熟練を要する、といってもよいでしょう。もしもそれが適切かつ効果的になられるならば、カウンセリングの過程が促進されますが、反対に、まとはずれの「明確化」は、カウンセリング場面を破壊する――つまり、クライエントは二度と来談しないようになる――結果をもたらしさえもします。それは、多くの場合、「明確化」が、「表明されていない感情」に応答したり、あるいはその「明確化」が、実はカウンセラー自身のその時の主観的な感情の投影(プロジェクション)であったり、さらには、カウンセラー自身の主観的な感情を基盤とする判断・憶測もしくは解釈になったりするからであります。この辺のことは、未熟なカウンセラーにとってはなかなか自覚しにくいところであると同時に、誰よりもカウンセリングに志すわたくしども自身が、鋭意解消に努めておかなければならないところなのであります。
(非指示的療法 友田不二男著 P.18〜20)


6.場面構成

 “場面構成(structuring)”とは、カウンセラーと膝を交えて話し合うその場面は、カウンセラーから何かを教えてもらうとか、示唆してもらうとか、助言し指導してもらうような、そういう性質の場面ではなく、話し合ってゆくうちに、真の意味での原因を探求する動きがとれるようになり、真の意味での原因を発見し自覚できるようになり、そして、これから、未来を目ざして建設的・創造的に行動してゆくことができるような、あるいは、これまではとうてい耐えられなかったであろうような困難に耐えられるばかりでなく、それを克服してさらに前進してゆくことができるような、そういうパースナリティの持ち主になってゆく場面であることを、誰よりもクライエント自身が自覚し認知できるようにする技術であります。
 カウンセラーを訪れてくる人(クライエント)は、十人中ほとんど十人まで、カウンセラーから何か有益なことを教えてもらえることを、何か効果的な手がかりを与えてもらえることを、少なくとも示唆ぐらいはしてもらえることを、期待して来訪いたします。この期待は、現代人が生きているこの社会の具体的な状況や機構、あるいは、現代人のいわゆる一般通念として、持たれるのが当然の期待でありましょうが――したがってそれは、決して批判されたり非難されたりしなければならない性質の期待ではありませんが、しかし、実をいうと、その期待のゆえにこそ、現代人は、真の意味における自立性・自主性を体得できず、真の意味における自由を身につけることができずにいるばかりでなく、不知不識の中に、いわゆる権威主義を支持し育成することによって自らの価値と尊厳とを低くし、特定少数者を高いものででもあるかのように思い込ませられる、といってもよいでしょう。“場面構成”という言葉で呼ばれている技術は、クライエントが、この辺のことを、カウンセリング場面の状況・推移の中において、的確に理解し自覚できるようにするのであります。(中略)
 いわゆるカウンセリング場面は、現実のこの世の中で、もっとも“自由”な場面であり、暴力さえふるわないならば、何をしても、何を言っても、決して批判されることもなければ非難されることもない場面であるということ、しかもその、最大限に――ということは“無限に”ということではありませんが――“自由な場面”において、自由に語り、自由に思考し、自由に行動するとき、そこから、真の意味での“自由な人間”が生まれ出てくるということ、それを、くどくどしい説明やお説教口調・講義口調の解説によってではなしに、まさしくその場の状況において、まさしくその時の流れの中で、簡潔かつ的確な言葉で、クライエントが理解し感得できるようにするには、もちろん、誰よりもカウンセラー自身の相当の訓練と熟練とを要するわけですが、反面、これが的確に理解され達成されたところから、真の意味でのカウンセリングが展開し発展しはじめる、といってよいでしょう。
(非指示的療法 友田不二男著 P.20〜22)





【カウンセラーの態度条件】

 ある意味では、上掲した諸技術よりもっと重要なのがカウンセラーの態度である。というよりもむしろ、「カウンセラーが諸技術を使用するのを可能にし、カウンセリング過程を効果的なものにする基盤が、カウンセラーの態度である」と言ったほうがよいだろう。以下に引用するのは、『ロジャーズ全集4 サイコセラピィの過程 第6章パースナリティ変化の必要にして十分な条件』(ロジャーズ著 伊東博訳)の一部を抜粋したものである。


 私は、私自身および私の同僚の臨床的経験と、利用しうる適切な実験的研究とを考え併せながら、建設的なパースナリティ変化を始動(initiate)するのに必要であると思われる諸条件、そしてまた、全部一緒にしたとき、その過程を進行させるのに十分だと思われる、いくつかの条件を取り出してみた。私は、そこにあらわれてきたものが、あまりにも単純なものであることに驚いたのである。
 次に述べることは、その正しさについて確信をもって提案するというのではなくて、むしろいかなる理論的な価値でももつことができるように、つまり、自由に証明され、あるいは否認されるべき一連の仮設を述べ、または暗示し、それによってこの分野に関するわれわれの知識をいっそう明瞭にし、また拡大することができるようにという期待のもとに述べるのである。
 この論文で私は、不安状態(suspense)をつくろうとしているのではないので、ただちに、ひどく厳密な、簡潔な言葉で、私がパースナリティ変化の過程に基本的であると感ずるようになった六つの条件をあげたいと思う。いくつかの用語は、ただちに明らかなものではないが、それは、次の説明の部分で明らかにされるであろう。この簡潔な記述が、読者がこの論文全体を読み終わったときに、もっとずっと大きな意味をもつことができるようにと希望している。前置きはこのくらいにして、基本的な理論的な立場を述べよう。
 建設的なパースナリティ変化が起こるためには、次のような条件が存在し、それがかなりの期間継続することが必要である。

1.二人の人間が、心理的な接触(psychological contact)をもっていること。
2.第1の人――この人をクライエントと名づける――は、不一致(incongruence)の状態にあり、傷つきやすい、あるいは不安の状態にあること。
3.第2の人――この人をセラピストと呼ぶ――は、この関係のなかで、一致しており(congruent)、統合され(integrated)ていること。
4.セラピストは、クライエントに対して、無条件の肯定的な配慮(unconditional positive regard)を経験していること。
5.セラピストは、クライエントの内部的照合枠(internal frame of reference)に感情移入的な理解(empathic understanding)を経験しており、そしてこの経験をクライエントに伝達するように努めていること。
6.セラピストの感情移入的理解と無条件の肯定的配慮をクライエントに伝達するということが、最低限に達成されること。

 他のいかなる条件も必要ではない。もしこれらの六つの条件が存在し、それがある期間継続するならば、それで十分である。建設的なパースナリティ変化の過程が、そこにあらわれるであろう。
(ロジャーズ全集4 第6章パースナリティ変化の必要にして十分な条件 伊東博訳 P.118〜120)


 上掲した六つの条件のうち、3.4.5.の三つが、いわゆる「ロジャーズの三条件――受容・共感的理解・自己一致」と呼ばれているものである。ここでは他の条件は割愛し、3.4.5.の三つについて、より明確に理解できるよう解説することにする。


3.関係におけるセラピストの純粋性

 第3の条件は、セラピストが、この関係の範囲内では、一致した(congruent)、純粋な(genuine)、統合された人間でなければならない、ということである。それは、この関係のなかで彼が、自由にかつ深く自己自身であり、彼の現実の体験がその自己意識によって正確に表現されるという意味である。それは、意識的にせよ無意識的にせよ、表面的なものだけを表現することの反対なのである。
 セラピストが、彼の生活のあらゆる側面において、これだけの統合性をもち、これだけの全体性を示す模範的な人間である必要はない(それはまた不可能でもあろう)。彼は、この関係のこの時間において、正確に自己自身であり、この瞬間において、このような基本的な意味で自己のありのまま(what he actually is)であるならば、それで十分なのである。
 このことが、サイコセラピィにとって理想的であるとは考えられないようなあり方であっても、ともかく自分自身であることを意味していることは明らかであろう。彼は、“私はこのクライエントを恐れている”とか、“私の注意力は私自身の問題に集中しているので、彼に耳を傾けることができない”というような体験をするかもしれない。セラピストが、このような感情を自分の意識に否定しないで、自由にそうあることができるならば(もっと別の感情であってもよい)、われわれの述べている条件は満たされているのである。
 セラピストが、自己のなかのこのような現実を、どの程度クライエントにはっきりと伝えるか、というむずかしい問題を考えていくと、それはわれわれをとんでもない問題にまで引きずりこんでしまうかもしれない。たしかに、セラピストが彼自身の感情をすっかり表現し、あるいは吐き出してしまうということが目的なのではなくて、彼が自己自身についてクライエントを欺いてはならないということなのである。時に彼は、(クライエントにでも、同僚にでも、あるいは監督者にでも)彼自身の感情をある程度話さなければならないかもしれない。しかし、それは、彼がその次の二つの条件によく適っている時にかぎられる。
(ロジャーズ全集4 第6章パースナリティ変化の必要にして十分な条件 伊東博訳 P.123〜124)


4.無条件の肯定的配慮

 セラピストが、クライエントの体験のすべての側面を、そのクライエントの一部として暖かく受容していることを経験しているならば、彼はそれだけ、無条件の肯定的配慮を体験しているのである。この概念は、スタンダル(Standal,S.)が考案したものである。それは、受容について何も条件がないことであり、“あなたがかくかくである場合にだけ、私はあなたが好きなのです”というような感情をもっていないことである。それは、デューイがこの言葉を用いている場合と同じように、人間を“高く評価する”(prizing)ということである。それは、選択的な評価的態度(a selective evaluative attitude)――“あなたはこういう点では良いが、こういう点では悪い”というような――とは正反対のものである。それは、クライエントの“良い”ポジティヴな、成熟した、自信のある、社会的な感情の表現を受容するのとまったくおなじくらいに、彼のネガティヴな、“悪い”、苦しい、恐怖の、防衛的な、異常な感情の表現を受容することであり、クライエントの一致している(consistent)やり方を受容するのとまったく同じくらいに、彼の一致していない(inconsistent)やり方をも受容することである。それは、クライエントに心を配る(care for)ことであるが、所有的(possessive)な、あるいはセラピスト自身の欲求を満足させるためだけの心配りではない。それは、クライエントを分離した(separate)人間として心を配ることであり、彼に自分自身の感情をもち、自分自身の体験をもつように許すことである。あるクライエントは、そのセラピストについて、彼は、“これが私の体験だ、私は本当にそれを体験しているのだ、というように……私自身の体験を私が所有することを励ました。すなわち、私は、私の考えることを考え、私の感ずることを感じ、私の欲することを欲し、私の恐れることを恐れることができた。そこには、‘もし’とか、‘しかし’とか、‘本当はそうじゃないでしょう’というような気持はまったく表現されなかった”と述べている。このような型式の受容(acceptance)こそ、パースナリティの変化が起こるために必要であると仮定された受容なのである。
(ロジャーズ全集4 第6章パースナリティ変化の必要にして十分な条件 伊東博訳 P.125〜126)


5.感情移入

 第5の条件は、クライエントの自己自身の体験についての意義に対して、セラピストが正確な感情移入的理解(empathic understanding)を体験するということである。クライエントの私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの“あたかも……のように”(as if)という性格を失わない――これが感情移入(empathy)なのであり、セラピィにとって肝要なものであると思われる。クライエントの怒りや恐怖や混乱を、あたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかも自分の怒りや恐怖や混乱がそのなかに巻き込まれないようにすること、これが、われわれがここで説明しようとしている条件なのである。クライエントの世界がこのようにセラピストに明らかになり、彼(セラピスト)がそのなかを自由に歩きまわる(moves about)とき、彼はクライエントのよくわかっているものを理解していることを伝えうるばかりでなく、クライエントの体験のなかでほとんど意識されていないような意味をも、口に出して述べることもできるのである。あるクライエントは、この第二の側面を次のように述べている。“いつでも私は、思考と感情がもつれ合い、たがいに反対の方向に運動する蜘蛛の巣にしめあげられ、私のいろんな部分からの衝動に悩まされ、このようなものがあまりにも多すぎるんだという感情を感じていた――それがまあ、ちょうど日光が雲間を破り、密生した木の葉を突き破って、その光の輪を入り乱れた森の小道にひろげるように、あなたの言葉が私のなかに入ってきた。(それは)非常にはっきりしたものであり、もつれを解きほぐすようなものであり、全体の状況を一変させるものであり、ちらばったものをきちんと整理するようなものであった。その結果は――、前進するという感じであり、そしてまた弛緩(relaxation)の感じであった。それはまさに太陽の光であったのである”と。こうした徹底した感情移入がセラピィにとって重要なものであるということは、フィードラーの研究によって示されている。この研究では、次のような項目が、老練なセラピストのつくりあげる関係を描写するときに、高い位置におかれるのである。
・セラピストは、患者の感情をよく理解することができる。
・セラピストは、患者の述べている意味を決して疑わない。
・セラピストの発言は、患者の気分やその述べた内容にぴったりと適合している。
・セラピストの声の調子は、彼が患者の感情を完全に共有することができていることを伝える。
(ロジャーズ全集4 第6章パースナリティ変化の必要にして十分な条件 伊東博訳 P.127〜128)


 上掲したのは、ほんの一部を抜粋しただけのものなので、もしも読者が「ロジャーズが示したこれらのこと」に強い関心を抱いたならば、ぜひとも「パースナリティ変化の必要にして十分な条件」と題された論文を最初から最後まで読んでいただきたいと思う。





【カウンセラーの人間観】

 クライエント中心療法の概略を示してきたわけだが、ここに示されている技術と態度とをカウンセラーに可能にさせ、また実践させる基盤は、「カウンセラーの人間観である」と筆者は確信している。もしも上述した技術や態度に対しなんらかの否定的な観念が浮かんだり、あるいは「観念的には理解し肯定しているにもかかわらず、行動がそれを裏切ってしまう」という人がいたなら、それは経験不足であると同時に「人間観が十分に育っていないからである」と筆者は言いたい。
 もちろん、初心者のカウンセラーに「ロジャーズと同レベルの人間観」など要求できないのは承知している。大切なのは、もしも読者がクライエント中心療法の立場に立つカウンセラーを目指すなら、「自分の人間観を育てていくこと」にできる限りの努力を傾けてゆくことである……と言いたいのだ。
 以下に引用するのは、『非指示的療法』(友田不二男著)の一部抜粋であるが、ロジャーズをはじめクライエント中心療法の立場に立つカウンセラーたちが、基本的に保持している人間観を表わしている文章である。


第一の仮説

 世のいわゆる「非指示的見地」には、四つの「基本的仮説」がある、といってよいでしょう。もちろん、それらは、研究と経験とを蓄積するにつれ、ある仮説はいよいよますます強調されるようになり、反対に、ある仮説は重要視されなくなる、というように変化してきておりますが、その点については後述することとし、ここではまず、そもそもの「四つの基本的仮説」を記述することにしておきましょう。
 まず第一は、「人間は誰でも、生長し発展し適応へと向かう資質を持っている」という考え方です。申すまでもなく、この仮説は、「人間は誰でも、生長し発展し適応へと向かっている」ということではありません。見方によれば、「生長し発展し適応へと向かう資質を持っている」にもかかわらず、実際には、その「資質」を充分に発現できず、あるいは機能させきれずにいる、それが現実の人間の大半である、と言えるのかもしれません。が、現実の人間がどのような姿であるかはともかくとして、あるいは、現にどのような姿であろうとも、そのような「資質を持っている」ことそのことには、すべての人間についてひとしく言えることである、というのがこの第一の仮説なのであります。
 この仮説は、わたくしどもの一般的な考え方や在り方に即して言えば、その意味を、次のような例で端的に示すことができるでしょう。すなわち

(1)医者が患者を治すのではない。患者は、患者自身の中に、病気やけがを治す力を持っているのであり、医者はただ、その力を頼りとして、その力が、できるだけ効果的に機能し作動するように援助することができるだけである。
(2)教師や親には、子供たちを教育したり指導したりしつけたりすることはできない。ただ、子供たちが、いろいろの経験を通して学習し生長し発展してゆくのを援助することができるだけである。
(3)カウンセラーは、クライエントをカウンセリングするのでもなければまた、クライエントは、カウンセラーによってカウンセリングされるのでもない。カウンセラーはただ、その経験が、クライエントにとって生長の経験となり得るような、そのような「場」もしくは「関係」を、用意し、構成し、設定することができるだけである。

 と。もしもこのような言い方が、依然として抽象的すぎるというのであるならば、もっと端的に、次のように言ってもよいでしょう。

(1)どんな名医を連れてきても、生きる力を失った患者を助けることはできない。
(2)親や教師が、たとえどのようによい事を教えようとも、もしも子供の側で、それがそのまま受け取られないならば、子供にとってはなんらよい事にはならない。教育とか指導とかしつけとかいう言葉にまさしく該当する現象は、教育するほうの側に起こっていることではなく、被教育者の側に起こっていることである。
(3)カウンセリングの焦点は、カウンセラーが何をどうしたかではなく、クライエントが、何をどう経験したかにかかっている。

 と。以上のことは、さらに別の言い方をすれば、次のように言ってもよいでしょう。すなわち、「その個人についてもっともよく知ることのできる人間は、まさしくその個人自身である」と。この表現もまた、申すまでもなく、「もっともよく知ることのできる人間」ということと「もっともよく知っている人間」ということを、混同しないように受け取っていただきたいのですが、それはそれとして、もしもこの仮説に立つならば、わたくしどもの行動や考え方は、世間一般のそれらとは、正反対になると言っても言いすぎではないでしょう。なぜならば、もっとも究極的な意味において、

(1)患者のことについてもっともよく知ることができるのが患者自身であるならば、医者は、患者にとってもっとも好ましい在り方を、患者から学んでゆかなければならない。
(2)子供のことについてもっともよく知ることができるのが子供自身であるならば、親や教師は、子供に接する自己自身の在り方を、子供から学んでゆかなければならない。
(3)クライエントについてもっともよく知ることができるのがクライエント自身であるならば、カウンセラーは、クライエントに対する援助の仕方を、クライエントから学んでゆかなければならない。

 からであります。つまり、伝統的・一般的な意味における「専門家は最高の知者である」「成熟者はつねに未成熟者よりも正しく判断し行動する」という、いわゆる権威主義的な考え方を、根底的にゆさぶっている、といってよいでしょう。この仮説は、専門家や成熟者が選択し決定する目標や方法は、つねにもっとも正しくかつ確かであるという考え方とは、真向から対立していると言っても言いすぎではないでしょう。
(非指示的療法 友田不二男著 P.4〜6)


第二の仮説

 ところで、このような第一の仮説にもかかわらず、現実には、「社会的・心理的不適応者」とか、「ノイローゼ患者」とか、あるいは「非行青少年」とか「精神異常者」とかいう言葉で呼ばれる人びとが数限りなくおります。いったいどうして、そのような人びとが生じているのでしょうか?
 申すまでもなく、これは、今日なお、誰一人として確定的な解答を提出することのできない問いであり、したがって当然、これに対しては、文字どおりに種々さまざまな考え方や解答が展開されている状況であります。たとえば、「親の扱い方が悪いから子供が悪くなった」とか、「友だちが悪かったのでウチの子は不良化した」とか、「家庭が貧しいために盗みをするようになった」とか、「こんな世の中ではバカバカしくてマトモに働く気になれない」とか、等々。こういう考え方はすべて、いわゆる「環境」に「原因」を設定しておりますが、「生まれつき知能が低い」とか、「生来内気でひねくれている」とかいうように、いわゆる「遺伝」に「原因」をおく考え方もあります。
 この種の考え方は、申すまでもなく、常識的水準において、「いかにももっともらしく思える」という以上には、ほとんどたしかさを見出すことができず、専門的・科学的には、あくまでも「探究の方向」を示しているにすぎないのですが、この「確定的な解答を提出することのできない問い」に対する仮説として、ロジャーズは、第二の考え方を用意しました。すなわち、「この新しい療法は、より大きな重みを、知性的な面におけるよりも情緒的な要素、すなわち場の感情的な面に置いているのである」と。
 この仮説は、もともとフロイドによって提出された見解で、しかし、それにもかかわらず、フロイドが、「人間の感情に直接働きかけることは不可能である」と主張したのに対して、方法的にそれを可能にしたところにロジャーズの功績がある、と言っている専門家もありますが、それはそれとして、「不適応の原因は感情にある」というこの仮説が意味するところは、次のように要約されるでしょう。

(1)不適応は、個人が、それを知らないことによってもたらされているのではなく、不適応を維持し強化することが、その個人にとってなんらかの情緒的な満足をもたらしていることに由来している。
(2)感情的・情緒的な満足は、説得、説諭、叱責、訓戒というような知性的手段によって解消されるものではなく、「できるかぎり直接に感情や情緒の王国に働きかけ」なければ解消され得ない。なぜならば、感情的・情緒的な満足は、あらゆる知性的な手段・方法を、その満足の範囲内に拘束してしまうから。
(非指示的療法 友田不二男著 P.6)


第三の仮説

 第三の仮説は、「問題となって表面化し現象化している事柄ではなく、パーソナリティー全体の再体制化が必要である」という考え方であります。たとえば、「夜尿の子供」に対して、その「夜尿」を治そうとするのでもなければまた、その「夜尿」を治させようとするのでもありません。あるいは、盗みをするからといって、その「盗みをすることそのこと」をやめさせようとするのでもなければまた、その「盗み」を問題にしようとするのでもありません。「勉強がきらいである」とか「横着である」からといって、「勉強が好き」になるようにしようともしなければ「働き者」にしようともしませんし、「勉強ぎらい」とか「横着」とかいうことを反省・改善させようともいたしません。
 ロジャーズの表現を借りれば、この「新しい方法は、特殊な問題を解決するのが目的ではなく、個人を助けて生長させ、現在の問題および将来の問題に対して、より良く統合された方法で対抗できるようにするのが目的」なのであります。
 問題の焦点は、「主訴」とか「徴候」とかいう言葉で呼ばれている現象ではなく、そのような現象をもたらしている現在のパーソナリティーそのものであり、ロジャーズに即する意味でのカウンセリングの焦点は、その現在のパーソナリティーを再体制化することなのであります。わかりやすく言えば、もしも「夜尿のある子供」が「夜尿しないようなパーソナリティーの子供」になれば、「夜尿」はおのずからにして消失してしまうでしょうし、もしも「盗みをする子供」が、「盗みなどしないようなパーソナリティーの子供」になれば、「盗み」というような行為は展開されなくなる、という考え方なのであります。
 ついでながら、ここで付記しておきたいことは、「問題の解決」とか「問題を解決する」という一般的な考え方についてであります。先に引用したように、ロジャーズの考え方は、見方によれば、このような考え方とは正反対であるといってよいでしょう。端的に言えば、人生には、問題がないということは絶対にあり得ず、もしも人間が、「問題を解決すること」に焦点を合わせるならば、絶えず同種同質同様の問題に追いまくられてしまうでしょう。
 もっとも本質的な意味において、人間にとって重要なことは、自己のパーソナリティーを不断に再体制化し、かつては非常な努力を払って対処した問題を容易に処理できるようになり、かつては直面することさえできなかったほどの困難な問題に対処してゆくことができるようになる、ということであります。つまり、「問題解決」ということは、より二次的であり、「個人の生長」ということこそ、一次的かつ本質的である、というのがロジャーズの考え方であるといってよいでしょう。
(非指示的療法 友田不二男著 P.6〜7)


第四の仮説

 第四の仮説は、「個人の過去におけるよりも現在の場面を重要視する」という考え方であります。今日、一般的には、個人を理解しようとする場合には、何よりもまず、その個人の過去を明らかにすることが肝要であり、もしもその個人の過去を明らかにすることができるならば、現在の状態・特質・傾向を知ることができる、という考え方をしております。いやいや、単にそのような考え方をしているというだけではなく、それこそ「正しい考え方」であり、「科学的」である、と信じこんでいるようです。もしもそうであるならば、この第四の仮説もまた、一般的・伝統的な考え方もしくは信条とは正反対であるといってよいでしょう。
 個人の過去を問題にし、そこに原因を探るということは、「研究」としては十二分に意味のあることでしょう。しかし、臨床的には、単に重要でないばかりでなく、有害無益でさえもあります。なぜならば、「生きる」ということは、「刻々の現在」におけるできごとであり、「変化し発展する」ということは、「将来」へと向かってのみ遂行され達成されることであるからであります。のみならず、一般的・世間的な意味においての「不適応者」や「異常者」は、明確に意識するしないにかかわらず、心の奥底において、「過去からの脱出」を企図しており、過去に触られることに脅威を感じるからであります。重要なことは、個人を対象物として研究することではなく、「刻々の接触」が、クライエントにとってまさしく「治療的経験」として経験されることなのであります。
(非指示的療法 友田不二男著 P.7〜8)


 以上が、クライエント中心療法の立場に立つカウンセラーの基本的な考えかたであり人間観である。が、もしもこれらの仮説を“仮説として”保持することができないカウンセラーがいたならば、そのカウンセラーは最大限の努力を傾けてクライエント中心療法を展開しようとも、最終的には決して成功には至らないであろう。
 別の言い方をすれば、もしもこれらの仮説を“仮説として”保持することができないのなら、「クライエント中心療法ではなく、他の立場や考え方のカウンセリングに転向したほうが身のためになるだろう」と言いたいくらいである。
 それほどまでに、カウンセラーにとって「人間観を育てること」は重大なのである。もちろんそれは、「観念・概念のレベルでこれらの仮説を保持すればよい」ということでなく、「行動レベルでこれらの仮説に基づいた行為をとる」ということ、あるいは「身につけていく」ことが肝要であるという意味だ。
 それを承知のうえで、ひとりでも多くのカウンセラー志望者が「クライエント中心療法家を目指してくれること」、すなわち「自分自身を育ててゆくこと」に関心を傾けてもらえたら……というのが、現在の筆者の偽りない切なる願いである。





【ロジャーズの自己理論】


 ロジャーズやその仲間たちが、「人間というものをどのように考えていたのか?」を知るうえで最も重要な論文の一つが『パースナリティと行動についての一理論』と題された論文である。以下にその一部分を抜粋して掲載しよう。


 臨床的な研究の成果が豊富に蓄積されるにつれて、クライエント中心療法に興味をもつ人々が、観察されている諸事実を包括的に説明するような、そしてまた、今後の研究に有益な方向を指し示すような理論を体系化しようと試みるのは当然のことであろう。本章は、パースナリティのダイナミックス(personality dynamics)と行動についての、よりいっそう普遍的な諸説を体系化するという問題における、われわれの思考の現段階を報告しようとするものである。(中略)
 できるだけ明確に思考を提示するために、そしてまた、欠陥もしくは矛盾をできるだけ容易に探査できるようにするために、以下の素材は、一連の命題とし、それぞれの命題に簡単な説明や解説をつけて提出される。この理論は思案的なものと考えられているので、諸命題について、とくに、あらゆる現象を適切に説明しているかどうかたしかでない命題について、いろいろの疑問が提起される。これらの命題のうちいくつかは、仮定とみなさなければならない。もっとも、命題の大多数は立証もしくは反証があり次第修正されるべき性質の仮説とみなされる方がよかろう。全体としては、これらの一連の諸命題は、すでにわかっている諸現象や、セラピィにおいてつい最近観察されているパースナリティや行動に関する諸事実を説明する一つの行動理論(a theory of behavior)を提示するものである。提示される諸命題は多くの点で、すでにあるいろいろの体系をまとめなおしたものであるが、また多くの点で、それらとはちがったものなのである。これらの類似や差異を指摘するようなことはしないであろう。なぜならば、そのような企ては、率直かつ体系的な提示をそこなうように思われるからである。
(ロジャーズ全集8 パースナリティ理論 伊東博編訳 P.89〜92)

諸命題

1.個人はすべて、自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界(world of experience)に存在する。
2.有機体は、場に、その場が経験され知覚されるままの場に、反応する。この知覚の場は、個人にとって実在(reality)なのである。
3.有機体は、一つの体制化された全体(an organized whole)として、この現象の場に反応する。
4.有機体は、一つの基本的な傾向と渇望(striving)をもっている。すなわち、体験している有機体を現実化し、維持し、強化することである。
5.行動とは、基本的には、知覚されたままの場において、有機体が、経験されたままの要求を満足させようとする、目標指向的な企てである。
6.情動は、前述のような目標指向的な行動にともない、かつ、一般的には、このような目標指向的な行動を促進するものである。情動の種類は、行動の追求的様相か完成的様相に関連しており、情動の強さは、有機体の維持と強化に対する意味についての知覚と結びついている。
7.行動を理解するために、もっとも有利な観点は、その個人自身の内部的照合枠(internal frame of reference)から得られるものである。
8.全体的な知覚の場の一部は、次第に自己(the self)として分化されるようになる。
9.環境との相互作用の結果として、とくに、他人との評価的な相互作用の結果として、自己の構造(the structure of self)が――“わたくしは”もしくは“わたくしに(を)”の特質や関係についての知覚の、体制化された、流動的な、しかし首尾一貫している概念形式(conceptual pattern)が、これらの諸概念に結びつけられている諸価値とともに――形成される。
10.いろいろの経験に結びつけられている諸価値や、自己構造(the self structure)の一部である諸価値は、ある場合には有機体によって直接的に経験される諸価値であり、ある場合には他人から投射され(introject)もしくは受けつがれるが、しかし、あたかも直接的に経験されたかのように歪められたかたちで知覚されるものである。
11.いろいろの経験が個人の生活において生起すると、それらの経験は、(a)なんらかの自己との関係へと象徴化され、知覚され、体制化されるか、(b)自己構造との関係が全然知覚されないので無視されるか、(c)その経験が自己の構造と矛盾するので、象徴化を拒否されるか、もしくは、歪曲された象徴化を与えられるか、のいずれかである。
12.有機体によって採択される行動の仕方はほとんど、自己概念と首尾一貫しているような仕方である。
13.ある場合には、行動は、象徴化されていない有機的な経験や要求から起こることもあるであろう。このような行動は、自己の構造と矛盾するであろうが、しかしこのような場合には、その行動はその人自身によって“自分のものとして認められ”(owned)ないのである。
14.心理的不適応は、有機体が、重要な感官的・内臓的経験を意識することを拒否し、したがって、そのような経験が象徴化されず、自己構造のゲシュタルトへと体制化されないときに存在する。この状況が存在するとき、基本的もしくは潜勢力的(potential)な心理的緊張がある。
15.心理的適応は、自己概念が、象徴のレベルにおいて、有機体の感官的・内臓的経験をことごとく自己概念と首尾一貫した関係に同化しているか、もしくは同化するであろうときに存在するのである。
16.自己体制もしくは自己構造と矛盾対立するいかなる経験も、なんらかの脅威として知覚されるであろうし、このような知覚が多ければ多いほど自己構造は、それ自体を維持するように強固に体制化される。
17.自己構造に対して基本的になんらの脅威も包含していない条件下においては、自己構造と矛盾対立する経験は、知覚され検討されるようになり、また自己構造は、そのような経験を同化し包含するように修正されてくるであろう。
18.個人が、自分の感官的・内臓的経験の一切を知覚し、それを首尾一貫した統合されている一つの体系へと受容するならば、そのときには、その個人は、必然的に他の人々をよりいっそう理解しており、かつ、他の人々をそれぞれ独立した個人としてよりいっそう受容しているのである。
19.個人は、自分の有機的経験をますます多く自分の自己構造へと知覚し受容するにつれて、自分が、歪曲して象徴されていた自分の内面への投影にきわめて大きく基礎づけられた現在の価値体系を、つぎつぎと起こっている有機体的な価値づけの過程と置き換えていることに気づくのである。
(ロジャーズ全集8 パースナリティ理論 伊東博編訳 P.92〜145)


 以上、『パースナリティと行動についての一理論』に記されている命題のみを抜粋して掲載した。実際には命題一つ一つに対して詳細な解説が加えられているのであるが、紙面の都合上割愛させてもらった。より深い理解を得たいと欲する読者の方々には、ぜひともこの論文を熟読し、かつ自分自身で思考し検討してもらいたいと筆者は願っている。

<参考文献>
・ロジャーズ全集2 カウンセリング 佐治守夫編 友田不二男訳 岩崎学術出版社 1966年
・ロジャーズ全集3 サイコセラピィ 友田不二男編 岩崎学術出版社 1966年
・ロジャーズ全集4 サイコセラピィの過程 伊東博編訳 岩崎学術出版社1966年
・ロジャーズ全集8 パースナリティ理論 伊東博編訳 岩崎学術出版社1967年
・カウンセリングの技術〜クライエント中心療法による〜 友田不二男著 誠信書房 1956年
・自己の構造〜カウンセリングにおける人間像〜 友田不二男著 柏樹社 1969年
・非指示的療法 友田不二男著 日本カウンセリング・センター 1964年


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『自己の構造 −カウンセリングにおける人間像−』より


二、カウンセリングと自己

 「カウンセリング」とか「サイコセラピィ」という言葉は、今日なお、決して一義的に定義づけられているわけではないし、また、人によれば、これらのふたつの言葉をハッキリと区別して使っております。
 しかし、筆者や筆者の仲間たちは、このふたつの言葉をなんら区別することなく使っておりますし、また、それをハッキリと区別しなければならない理由を見出してもおりません。のみならず、これらの言葉の意味を明確に定義づけるようなこともしておりません。
 それは、定義づけることが無用であると考えているからではなく、定義づけることがどうしてもできないからであります。

 「カウンセリング」ということを、現在の筆者や筆者の仲間たちが経験している限りにおいていえば――ということは、さらに実践的・臨床的な経験を蓄積したり洞察力を深めたりするときには、どのように変るか判らないということですが――次のように表現するときに、もっとも正確に記述できるのであります。すなわち、  「正体不明のある個人と正体不明のある個人とが、なんらかの接触をつづけていく過程において、なんらかのパースナリティの変化を生起することである」
 と。たしかにこのような言い方に対しては、なんぴとも異論をさしはさむことができないでしょう。しかし、このような言い方によって、「カウンセリング」ということを実感的に理解できる人はきわめてまれでありましょう。(中略)
 そこで、もう少し記述をハッキリさせるために――ということで書き改めると、それがもう、誤解や偏見をもたらす発端になってしまいがちですが―― 一応、一方の「正体不明のある個人」を「カウンセラー」と呼び、他方の「正体不明のある個人」を「クライエント」と呼ぶことにしております。
 この「クライエント」という呼称は、「カウンセリングの領域」においては今日なお、決して一般化している言葉ではなく、いずれかといえば、いささか特異な呼称でありましょう。(中略)にもかかわらず、筆者や筆者の仲間たちが、これらの伝統的・一般的な言葉のいずれをも採用せずに、とくにこの「クライエント」という言葉を使用するのは、この言葉の持つ本来的・語源的な意味がもちろん依然として不十分ではありますが、しかし他のいずれの言葉よりもはるかに、筆者たちの実践的な臨床経験と密着しているからであります。
 つまり、この「クライエント」という言葉で意味されている人間は、端的に言えば、「なんらかの問題なり課題なり困難なりに直面して、なんらかの援助を求めるために、積極的かつ自発的に来訪もしくは来談するが、しかし決して、最終的・究極的な意味において、自分の責任を他人に引き渡してしまうようなことがない人」なのであります。
 この本来的な意味がほとんど理解されず、「クライエント」という言葉が、「カウンセリー」や「サブジェクト」、あるいは「ペイシェント」や「アナリザンド」と同義的に使われていることが少なくないようですが、しかし、それは一応それとして、このように呼称を約束するならば、上述した「正体不明のある個人と正体不明のある個人とが」という言い方は、ただちに「カウンセラーとクライエントとが」と書き改めることができるわけです。

 しかし、このように書き改めてもなお、実際には「〜と〜とが」という表現が、依然として理解されない場合が少なくありません。
 この「〜と〜とが」という表現は、あくまでも「協力」を意味するわけですし、しかもその「協力」は、「いっしょに同じことをやる」という意味での「協力」ではなく、前者と後者とがそれぞれ異なった性質の仕事を遂行しながら、全体的にはひとつのまとまりのある成果が達成されてゆく、という意味での「協力」であります。端的言えば、それは「同質の協力」ではなくて「異質の協力」なのであります。
 もしもこのことが正確かつ十分に理解されないならば、その「カウンセリング」は、名前こそ「カウンセリング」と呼ばれようとも、実際にはまったく似て非なるものになってしまうでしょう。
 「クライエント」がなすべき仕事は、誰よりも「クライエント自身」がもっともしたいと思うことをできるだけ最大限に遂行することですし、「カウンセラー」がなすべき仕事は「クライエント」が、今、そこで、もっともしたいと思うことができるだけ最大限に遂行できるように援助することなのであります。

 もしもこのことを正確に理解されるならば、「なんらかの接触」という言い方で表現しようとしていることもまた、おのずから理解されるのではないでしょうか?
 一般に「カウンセリング」というと、今日、時折、「カウンセラーがクライエントに話をさせる」とか、「カウンセラーがクライエントにもっぱらしゃべらせるのだ」とか、あるいは、「カウンセラーはひたすら聞き役に回らなければならない」とか、もっとひどい場合には――ということは、「単純な精神で皮相的・表面的にとらえて判ったようなつもりになっている場合には」ということですが――「カウンセラーはただ、フムフムフムフムとあいづちを打っていればいいのだ」という受取り方やとらえ方さえなされております。
 しかし、「接触」という言葉で基本的に意味していることは、俗にいう「ヒザを交えて」ということなのであります。しかもこの「ヒザを交えた関係」は、決して一方が他方に「話をさせようとする」のでもなければまた、一方が他方に「話をしなければならない」ことを要請されているわけでもありません。ましてや、一方が「聞き役に回らなければならない」などという規則など、どこにもないのであります。

 しかしながら現実には、上述したような誤解や浅薄なとらえ方が時折なされるように、「クライエント」はよく話をしますし、「カウンセラー」はただ、「フムフム」とうなずいてばかりいたり、あるいはときどき、「クライエントの話を確認する」とか「念押しする」とか、さらには「オーム返しする」とか言われるような動きを取っております。
 もちろん、「カウンセラーの動き」は、およそ「確認」とか「念押し」とか「オーム返し」とかいう言葉で表現されることとはまったく縁のないことですが、しかし「形」だけを表面的に「とらえる」ならば、このような「とらえ方」がなされるわけでしょう。
 が、基本的・原則的な言い方を端的にするならば、「カウンセラー」は、「クライエントが表明したクライエントの気持」をできる限り敏感に感じ取り、その「自分が感じ取ったところ」を、できる限り正確な言葉にして「クライエントに伝達する」ことをやっている、といってよいでしょう。
 それは、形式的な言い方をすれば――ほんとうに「形式的」な言い方なのですが、次のように言ってよいでしょう。
(イ)あなたのお気持は、わたくしには非常によく判ります。
(ロ)あなたが今おっしゃられた気持は、これこれこのようなお気持なのですね。(あるいは、なのでしょうね。)わたくしは、そのように理解しましたが。
(ハ)あなたが今おっしゃられたお気持を、私はこれこれこのように受け取りましたけれど、このような受け取り方でよろしいでしょうか?
(ニ)あなたが今、なんとかして正確な言葉でおっしゃりたいと思っておられるお気持は、これこれこのようなお気持ではないのでしょうか?

 いうまでもなく、このような形式の表現も、もしも「カウンセラー」が「表現の形式」にとらわれると、およそ「生命のない」ものとなってしまいますが、それは今のところそれとして、このような「接触がつづいてゆく過程」において、きわめて顕著に経験され実感される「現象的事実」は、いずれ「あるひとつの事例」によって例示いたしますが、筆者たちが「パースナリティの変化」という言葉を使って探求し明確にしようと企てつつある現象なのであります。
 この「パースナリティの変化」という言葉もまた、しばしば誤解と偏見とをもたらしているようですが、ここでまず第一に申し上げたいことは、この「変化」が、決して単に「クライエント」の方にばかり起こるのではなく、「カウンセラー」の方にもまた起こる、ということであります。
 もちろん、その「変化の度合」に関していえば、前者の方がはるかに大きい、といってよいでしょう。そのために、ややともするとそれは、「クライエント」の方にのみ起きるかのように思われがちですが、もしもそのように認識するならば、「真相」もしくは「実態」からかけ離れてしまうでしょう。
 夫は妻によって変り、妻は夫によって変る。子は親によって変り、親は子によって変る。生徒は先生によって変り、先生は生徒によって変る。被使用者は使用者によって変り、使用者は被使用者によって変る。――というようなタイプの現象は、「カウンセリング」に関してもひとしく言えることなのであります。

 第二に申し上げておきたいことは、「パースナリティの変化」という言葉で呼んでいる現象が、実際にはいったいどういうことであるのかということが、決して究明され解明されてしまっていることではない、ということであります。
 老子の言葉に「言者不知。知者不言。」「言フ者ハ知ラズ。知ル者ハ言ハズ」という言葉がありますが、人間は、「何かを感じている」ことに気づきながら、しかしその「感じている何か」が「何」であるのかハッキリしないとき、しかしその「ハッキリしない何か」をなんとかして「ハッキリさせたい」とき、その「何か」に「仮の名前」をつけて取り組みはじめるわけであります。
 「パースナリティの変化」という言葉でいっていることもまた、決してその例外ではありません。それについては現在なお、専門的には、さまざまな研究が遂行されつつあり、さまざまな論議が展開されつつあるのであります。が、このことを一応ハッキリとおことわりした上で、目下のところでは、この言葉は、「人間の成長」ということと密接している「何か」を意味している、と申し上げておきましょう。

 一口に「カウンセリング」という言葉を使うとき、大づかみに言えばそれは、「まったく異なるふたつの方向をめざしている」のであります。
 もちろん、出発点において「まったく異なる」と思われていた「ふたつの方向」が実際に歩んで行ったら同じところにたどりついた、ということもありうるでしょうが、それは今日なお、将来に残されている問題である、といってよいでしょう。
 現在の段階でいえば、伝統的・一般的な意味での「カウンセリング」は、「問題の解決」をめざしているのに対して、筆者や筆者の仲間たちがめざしているところは、「人間の成長」なのであります。
 筆者の経験によると、一般にはこのことが非常に理解されにくいらしく、また時折、「概念のレベル」では十二分に判りながらも、「行動のレベル」においてはまったく異なることも見聞しているのですが、それだけに余計に、筆者たちのいわゆる「カウンセリング」がめざしているところは「人間の成長」であるということを、誤りなく理解していただきたいのであります。

 ところで、「カウンセラーとクライエントとが、ヒザを交えて接触しつづけてゆく過程において、なんらかのパースナリティの変化が起る」ということは、いわば「自然に生起する」ことであって「人為的にもたらされる」ことではないということも、この機会に強調しておきたいと思います。
 今日では、一般に、人為的な操作主義的な考え方や行動が、あたかも「正常」な「当然」の考え方であり行動であるかのように思われておりますので、「自然に」ということ、「おのずから」ということ、が、非常に判りにくくなっているようです。
 が、それは一応それとして、この「自然の流れ」において「自然に生起する」ところを逐語記録によって入念に検討しますと、(中略)その過程はきわめて錯雑したもので、もしも詳細に記述するならば、「同じ現象」は二度とないといってよいのです。
 がしかし、それにもかかわらず、大づかみには、基本的な、しかもきわめて典型的な特徴もしくは傾向を、きわめて多くのケースに共通した現象として、見いだすことができるのであります。その詳細は他書に譲り、標語的な表現でそれを示すならば、次の通りであります。
 すなわち、クライエントが語ってゆく話の内容(話題)は
(イ)徴候から自己へ
(ロ)環境から自己へ
(ハ)他人から自己へ
と変化してゆく、と。

 この「変化の過程」は、まさしく「人間の成長」と密接に関連していることを、筆者たちはもちろん、誰よりも「クライエント自身」がリーアルに経験し実感しているようですが、このような要約的な抽象化された言い方を裏づける具体的な実例のひとつを、次に掲げておきましょう。(紙面の関係で、逐語記録の全文を転載することはできませんが、この種の記録と、それを作成するための録音テープがたくさん用意されておるばかりでなく、それらのうちのいくつかは、すでに公開されていると同時に、いつでも公開できるようになっていることを、付言しておきます。)



三、あるカウンセリングの一事例

 昭和○○年○月○日、ひとりの女性が、当時筆者のところに勉強に来ていたK氏に連れられて来談いたしました。多くの人々は、「連れられて来た」というとそれだけで、「積極的かつ自発的に来談したクライエントではない」と推測し判定しがちなようですが、たとえ形式的には「連れられて来た」という形になっていようとも、手足を縛られてかつぎ込まれるとか、薬物で眠らせておいて連れ込むというのでない限り、クライエントは、積極的な意志なしに、また、自発的な決定なしに、来談するものでは決してありません。のみならず、たとえ形式的には「自分から進んで来談した」場合であろうとも、実はその「自分から進んで」ということが、言葉のようには単純ではなくて、「連れられて来たクライエント」よりもはるかに依存的であり、かつ、そのことに気づいていないこともまれではありません。仏教の領域に「殺仏越祖」という言葉がありますが、おそらくこの言葉は、仏にすがってご利益にあずかろうとし、祖師の力に頼れば素晴らしい恩恵に浴せるものと決め込んでいる人々との関係において、生み出されたのでありましょう。
 ところでこの女性でありますが、彼女の話によれば彼女は、当時、キリスト教関係の方々によって経営され運営されている、ある婦人の更正施設――「○○寮」と呼んでおりましたが――に収容されておりました。しかし、仲間たちに対してはもちろんのこと、指導者たちに対しても、きわめて強い否定的な感情に包まれておりました。彼女は、カウンセラー(筆者)がK氏から事前に何も聞いていないことを伝えられると、次のように話しはじめました。

「あの、とってもこう、自分で、とっても、なんていうのかな、体があの、あんまり丈夫じゃないんですね。で、あの、仕事をしても、ぜんぜんその、張り合いが出ないんですけれどもね。」
「で、今あの、あたくしあの、なんていうのかしら、夜はぜんぜん眠れないし、まあ、体もとっても衰弱してるんですけれどもね。」
「自分で別になんでもなくやったことがその、誤解される面が――に対して誤解される面があったんですね。だから、“こういうことがどうして判ってくれないのかな?”と思うことがなんべんもありました。――“くやしい”と思ったこともずいぶんありました。けれどもね、“いつかは判ってくださるだろう”と思ってるんだけれども、やっぱりヂリヂリヂリヂリしてイライラするわけですねえ。」

 彼女は、「徴候」とか「症状」とかいう言葉で一般に呼ばれている現在の自分の状態を、まず最初にこのように語りはじめております。これは、決して彼女の場合だけでなく、すべてのクライエントに共通している現象なのであります。
 彼女は、さらに、自分が現在収容されている「寮」がどのような「寮」であり、どのような状況であるかを――つまり、現在の「彼女の環境」について、次のように語っております。すなわち、

「ああいうふうな、大勢で、そして、女ばっかりの生活っていうのは、往々にして口がウルサイし、そういうことが今、すごく耐えられないんです。」
「寮内のお仕事といってあの、あれですけれども、廃品部をやってんですね。“○○寮廃品部”っていうのを。――で、そこ、それはまあ、結局、外に出歩いていろんな廃品を掻き集めて、仕切屋に出すんですけれども――今、5人でやってんですよねえ。あんまりあたくしには向かないんです。」
「スゴクこう、モノスゴクその、寮生なんかでもこう、ほんとうに無知な人がいると思えば、なんでも判っているような人がいるっていうようなね、その中間を歩む人ってのがひとりもいなくって、その、スゴクはげしいんです。その差が、モノスゴク。――で、あたくしなんか、どっちかって言えばその、中間を歩きたいようなほうだから、とってもな話じゃないけどそういう、素晴らしい人にもついて行けないし、また、あまり無知な人にも“どうかな?”っていうふうに、自分で後ずさりするし、ついて行けませんわ、あの、あの中。」
「でまたね、ここの寮生、あの、○○寮の寮生ってのは、ちょっと自分の気持を訴えるとそれがパーッと広がるんですよね。すぐ洩れちゃうんですよ、それがもう。――ナイショゴトなんか絶対にできない――(詠嘆的な口調で)ウルサイからなあ!!」

 いうまでもなく、このように彼女が語っている「環境」が、そのまま「現にそうである環境」なのか、それとも、今の彼女には「そのようにしか見えていない環境」――つまり、「現在の彼女の環境」――なのかという問題は、彼女の話からだけではなんともいえないでしょう。しかし、今の場合――ということが、筆者たちのいわゆる「カウンセリング」に関する限り、ということですが――そのようなことはどうでもよいのです。なぜならば、「現在の彼女」には、彼女が現に生きている世界は、現に彼女が語っているようにしか見えていないということ、そしてそれは、「現在の彼女」にとってはまさしく「真実である」ということ、を、誰も否定することができないからであります。現在の筆者に言わせれば、親や教師や指導者たちは、一般にこのことがなかなか判らず、相手の人の現在の真実を「否認」し「否定」し「反論」し「論破」することこそ「指導」であり「教育」であると「思い込んで」いるようです。しかし、「客観的事実」を探求し明確にすることは、このような状況においてはまったく有害無益なのであります。「客観的事実の探求」は、それ自体はどれほど価値のあるものであろうとも、もしも人間そのものが、それ以前に「客観的事実を探求することそのことのできる状態」になっているのでなければ――あるいは人間と人間の関係が、場が、雰囲気が、ともどもに力を協せて「客観的事実の探求」を遂行できるような関係なり、場なり、雰囲気になっているのでないならば、百害こそあれ、一利もないことなのであります。
 ところで、少しく記述が横にそれてしまいましたが、上述の引用にもすでにほの見えているように、彼女は、「徴候」を語っている間にすでに、「自分というもの」をチラツカセておりますし、「環境」について語っている間に「他人」に言及したり、また、「自分というもの」をのぞかせたりしておりますが、このように織りまぜて話しつづけている中から、「他人」について語っているところを、次に少しく引用しておきましょう。

「で、部屋の人がまた――ひとり年とった人がいるんですけどねえ、なんかもう、結局、あたくしが寮を出たい出たいっていうことに対して、すごく反撥を加えて、なんかこう、ジワジワとしたイジメ方を、意地悪をするんですよね。」
「今、職員でも誰ひとり判ってくれる人いませんよ。ま、Kさんがウスウスその、判ってくれてはいたみたいで、でもまあ、半分以上判らないでしょうねえ。」
「今、寮の中にいる職員――Kさんなんかはまた別としても、職員としてはやっぱりクリスチャンのほんとうに、ま、一生神に、自分の体を捧げたっていう人が半、多いですからね。そういう人が、そういう人ばっかりのカタマリですからね、やっぱり理解はできないですよ。おそらくできないと思います。――(中略)――あの人たちの範囲だけで、その範囲内だけの理解のその、解釈の仕方でこっちに持ってこられたって、あたしたちはピンとこないわけですよね。」
「今その、やっぱり救世軍の寮にいらっしゃった方で、Oさんという方が、今来てるんですけどね、寮生として。――その人とはもうやっぱりこう、話し合うんですけどね。で、その人はもう5月に結婚するから寮を出るんですけどね。まあ、彼女はやっぱり、ある程度、開けてるったらオカシイけど、やっぱり判りますね、話が。だけど(自嘲的な口調で)やっぱりオカシイですよねえ、その“ニラメられたくないから”なんて言うんですよね。」

 第1回目の接触において彼女が語っていた話の内容は、以上の抜粋から推測されるかと思いますが、終始一貫して、「自分が現在どのような姿・状態であるか(徴候)」、そして「どのような生活環境に置かれているか(環境)」、また「その生活環境を構成する人々はどのような人々であり、どのような態度や行動をとっているか(他人)」が大半でした。しかし、第2回目に来談したときには、――2回目以降はすべて自分ひとりで来談しておりましたが――彼女の話の内容はほとんど、彼女自身のことに集中されております。

「今あの、お仕事しているんですよ。あの、ていうのはね、あの、○のね、あの○○屋さんの家なんですけどね――そこであの、子供さんの子守を募集していたんですよ。あたくし子供が大好きですしね。で昨日から――(中略)――張り合いが、やっぱり外に出て仕事をするっていうことは張り合いがあっていいですね。」
「あのお、どうしてもその、“雰囲気がイヤだ”とかなんとかいうんだったらしょうがないけれども、やっぱり“我慢できる間はちょっと、我慢してごらんなさい”って言われたときに、やっぱり自分でね、結局自分のわがままだったしね、ちょっと反省したんですけどね。できるだけ自分で、まあ、できる範囲のことは我慢してね、みんなと一生懸命協力してやっていきたいと思っております。それがいいと思うんですけども――」
「食欲もなんだかこう、最近でてきた、みたいな感じです。――気分ですね。ほんとうに体なんていうのは気分だと思いましたね。」
「ですからなんだ彼だってカゲになりヒナタになって――でもその、やっぱり、一番はじめにここにうかがうとき、うかがうときまでは、そういう心配もこう、ハネ返していたんですよ。でも最近はやっぱり、なんだ彼だって心配して下さると、やっぱり“有難いな”と思います。――(中略)――(これまでは)単なるひとつの、ちょっとした期間の慰めとしか感じられなかった。」

 今にして思えば、それは結局、「ひとつの邪推ですね」と判るわけです。彼女はさらに、「家の父と母っていうのはその、クリスチャンだった」ために「生れてすぐに、その、洗礼受けた」のですが、「スゴク気持が荒れていた」ときに寮長にすすめられ、「どうしても自分で考えても、聖書のもとにはどうしてもついていけないと思った」けれども、「いろんな指導があって」、結局「堅信礼を受け」、「そのときはちょっと感動したんですけどね、それから後がやっぱりまだモヤモヤして、ああいう気持だったんですよね。でも、この間あの、先生のところにはじめてうかがって、それからとっても気分が良かったんですよ」というように、「自分自身のこと」や「自分自身の経験」に話題を集中しております。そして、

「前とはちょっと変わったでしょ、少し!?――と思います。自分でも変わったと思いますね。とってもうれしいです。」
「10月頃からそして、なんかねあたくし、勉強したいと思うんですよね。今から音楽の勉強をしても遅いでしょうか?――いいと思いますけどね、自分では。」

 ということから、「○○音楽大学のあの、講師の先生にね、あの、声楽をズットついていた」話。宮田輝の司会で、「テレビでやった」「あなたが選ぶノド自慢」に出て、「20人の審査員はね、パーッと20人全部立ったんですよね。そのとき“金賞”っていう、あの、タテをもらって帰ってきましたよ。あのときはスゴクね、自分でもうれしかった」という話。「気分転換にオルガンをやってみたら」と寮の指導者からすすめられたりもしたが、自分としては「声楽だけをやっていこうと思っている」という話――といったように、いよいよますます、「自分自身」に話題を集中して、結局、その「自分というもの」がどのような人間であるか、にたどりついております。

「それでね、あたくしね、その、喜怒哀楽がスゴクはげしいんですよね。うれしいときにはモノスゴクうれしいんですよ。憂うつなときはスゴク憂うつですけどね。もう、うれしいときはスゴクうれしい。――だからもう、イヤなときはもう、部屋でシクシク泣くし――」

 と。この傾向は、もちろん直線的にはまいりませんが、しかし、いわば「波を打ち」ながらも、回を重ねるごとに次第に、より深層的な「己れの姿」や「自分の実態」をあらわにする方向へと進展してゆきます。

「やっぱり人間の調、調和ってのがやっぱり大切ですね。人と接することもこう――みんなが“じょさいない”って言うんですよ。だけどこう、あたくし、人嫌いするんですね。イヤとなったらもう、ほんとうにイヤなんですよね。そのクセがもう、昔から治らない。」(第3回目)
「やっぱりね、男の人ばっかりでしょう。で、“女の子が”なんて言われるとイヤだしね、気を使いますね。気を使わないようで気を使う。」(第3回目)
「ここに来てからということ――来てから、自分の気持はね、ウソイツワリなく――ま、言えませんね。ぜんぜんウソ言えませんね。それだけ、もっとも自分でも努力しました。頑張りました、スゴク。“あ、これ、ここでウソついたらダメだな”、“つまづいたらダメだな”って、自分で思いました。」(第4回目)
「面白いなあ!! ――とにかく社会なんて矛盾だらけだ。あの、だけど、“死”だなんていうこと考えなくなりましたよ。もう、もう自分でね、できるだけね、どん底に落ちても頑張ってみようと思う。」(第4回目)
「今まで失敗をずっと重ねて――別に、別に売春したわけじゃないしさ、泥棒したわけじゃないしね。ただ自分の欠点ていうのは、ちょっとしたその、デタラメをいうっていうことですよね。それが、あたくしにとってはスゴクその、コンプレックスを感じたわけですよね。だから、自分でもって、自分で徹底的に治したいと思った――でも、あたしっていう人間ての、ちょっと面白いでしょう!? 自分でねえ、“ちょっとおかしいな”と思うときあるんですよねえ。」(第4回目)
「なんていうのかしら、表面的に言わせればさ、第三者は、あたくしは“しっかりしてる”って言うんですよね。ところがあたくしってのはスゴク意志が弱いんですよ。ほんとうに意志が弱いんです。もうね、誰かなんかしようっていうとすぐ、その方にフラフラっていくようなね、性質なんですよね。だけどその、第三者からちょっと、こう、ひとことふたことしゃべってみると、あたくしがこう、ときどき偉そうなこと言うらしいんですよね。でそうするとその、“しっかりしている”って言うんですよ。」(第4回目)
「でもねえ、ここへ来て話してるっていうことは、お話していることは、ほんとうに自分の本心ですね。ほんとうに真実です。でも、前よりあたし、自分で少し明るくなったと思いますけど、先生どう思いますか? 少し明るくなったと思いません?」(第4回目)
「たしかにあたしはオッチョコチョイなんですよ。あたしはもうオッチョコチョイなとこは大いにあるんです。自分でも認めてます。」(第4回目)
「あたしっていうのは、カクシゴト、絶対キライですからね。絶対キライです。もうほんとうに、最近はカクシゴトっていうのは絶対できませんね。」(第4回目)
「あたくしなんかだってずいぶんつらくって、“死”ということ考えたけど、“死んでしまって何がなるか?”、“何になるか?”ってことね、最近考えるようになったですからね。できるだけ自分の欠点を直視して、そして“ああ、○○さんは少しでも、ああいう気持あったのかしら”っていうふうにね、思われてから、っていうふうなこと、ちょっと考えるようになった。」(第5回目)
「あたくし、たしかにまあ、あの、洗礼っての受けましたね。だけれども、一時、“強制的に受け、受けさせられたんじゃないかしら?”と思ったんです。でも最近やっぱりね、こう、考えるようになったんです。やっぱり、神様っていうのはね、実在する、存在するっていうふうにね、気持が判ってくるようになったんです。」(第5回目)
「やっぱり十分でないんですね。こう、ときどきやっぱりこう、お熱がでてね、こう、なんかこうちょっと考え込むと――神経が細いっていうのかな、オカシイですよね!!――太いようで細いですよね。」(第5回目)
「やっぱり自分で戦ってみても、やっぱり“神様には勝てない”ってこと――こういう気持、そういう気持、というふうに、それだけ、自分の気持は“少し大人になったかな!?”っていう気がしてくるときもあります。」(第5回目)
「ほんとうにあたくしはもう、今まではヒトに左右されやすくてもう、ほんとうに――だから“○○さんはフラフラだ”っていうね、前にはよく言われたんですけれども――(中略)――でもほんとうにオカゲさまで、ここにうかがってからってのは、確信がもてるようになってまいりましたね。」(第5回目)
「今まではね、こう、ただ音楽さえ聞いていればいいとか、歌さえ歌ってればね、自分の気持がほぐれるんだとか――でもほんとうにね、ここにうかがう前、自分で苦しんでるときにその、まあ、ああいうふうに恋愛問題で苦しんでいるときも――どんなに歌ってもね、どんなに叫んでも、どんなとこ、静かなところで音楽聞いてても、ぜんぜんそのね、自分の気持が晴れるとこまでいきませんでした。」(第5回目)
「ほんとうにそれはね、やっぱりあの、まあ神様ってことがね、やっぱりあたくしを見とどけて下さってね、“それだけ導いて下さったんだ”と思って、ほんとうに心から感謝しましたね。で最近こう、あの、木曜日にねあの、いつも聖書の研究やるんですけどもね――今までその、聖書研究なんてうっちゃらかしてね、ろくに聞いてなかったですよね。最近ほんとうに熱心になりましたね。」(第6回目)
「今度は自分から聖書読んで、判りやすいようになるべく自分で解釈していってみようと思うんです。参考書に頼ったってねえ――それは、ある程度判らないときは頼りますけどね。」(第6回目)
「カインがほんとうに傲慢であったって――この傲慢てところは、傲慢でその、強情っ張りで、自分の罪をどこまでもかくそうとするっていうことはね、現在のあたくしの生活の中にもあるんじゃありませんかってことをね、自分で言ったわけです。」(第6回目)
「(聖書を)読んで寝て、伏せてね、自分のベッドでこう、考えたときにね、“ああ、なるほどなあ!”と思うとき、なんべんもありますよ。ほんとうにね、それがね、相通じるときもありますね。」(第6回目)
「今まであたくしは、ほんとうに不正直な生活してましたよね。だけど、ほんとうにその、“神様”を知ってから、自分でだんだん判りかけてから――それから、ここで先生とお話しするようになってから、ほんとうに“自身が変わった”と思うんです。それは、表面では変わらないでしょうね、きっと。だけれどもあたくしの心の中では、“ほんとに変わった”と思う――それだけは、ほんとうに有難く感じてます。――(中略)――それだけは、ほんとうに言えます。だから今の寮の生活ってのはわりかし楽しいです。“楽しい”っていうか、もう煩、煩わされない。」(第6回目)
「心に平安――平安がこう、満たされてるから、と思いますね。ほんとうにそう思いますよ。感謝ですよ。あたくしは、今の生活で苦しいと思ったことないもんね。――(中略)――最近、冗談で受け取るようになってんですよ、ほんとに。あたくし自分で、“変わったなあ!!”と思うわ。ぜんぜん迷わなくなっちゃったもん。」(第6回目)
「だからね、こう、なんていうのかしら、やっぱりひとつの希望っていう――希望っていうか、なんかこう、心の中から湧き上げ、こう、涌きでてくるっていうふうな力がね、でてくるっていうことは、いいですねえ。ほんとうにいいことだと思うわ。」(第6回目)
「自分のね、やりたいってことはね、絶対にね、着々と進めていこうと思いますよ、これからね。ですけれども、もう少し我慢していようと思います。そういうふうに気持ちが変わりました、ほんとうに。」(第6回目)
「職業安定所のあの、係りの○さんていう人を訪ねて行ったんですよね。そしたらあの、偶然そこを世話してくれましてね。――(中略)――仕事もラクですしね。でまあ、品のいいとこですしね、今までのと違って――(中略)――やっぱりやりたい仕事はこの、やっぱりこう、“自分でさがしてみるべきだな”と思いましたね。」(第7回目)
「寮の中でも最近こう、なんていうのかしら、――自分で結局、今まであたくしが想像、こう、自分でこうね、今までのこと振り返って見ますと、寮の中で結局、なんていうのかしら、あたくし自身が片寄っていたんじゃないかと思うんですよね。だから、自分からこう、そのカベを突き破ってその、まあ、対人関係ですねえ、寮生との――自分からこう、話し合っていけば自然に、判ってくれる人は判ってくれるんじゃないかと思ってね、なるべく自分から接してゆくように努めているんですけども。」(第7回目)
「自分でもって、ほんとうに心の底から打ちとけてみると、自分の今までの行動っていうのがこう、スゴクこの、反省させられてきます。(一寸間)で、こう、なんていうのかなあ――そういうふうなやっぱし、仕事を与えられたっていうことに対しても、やっぱり今まで、結局、労働の仕事でも――労働の仕事だったでしょ、こういうふうな、○○なんかねえ――やっぱり神様がそれだけの試練を与えて、与えて、それだけの試練をね、あたくしにさせて下さったっていうのは、と思ってね。で、今また新しい職に就いたことは、“神様があたくしに、その新しい職を、自分に向いた仕事を与えて下さった”――こういうふうにあたくしは解釈してるんです。」(第7回目)
「ほんとうに、“神の存在”ていうのは、やっぱり認めたい――最近とくにね、この、認めてくるような感じを、つくづくこう、感じさせられますけどね。」(第7回目)
「だから今のあたくしの周辺ていうのかしら、“周囲”っていったらいいかしら、あたくしのこう、身辺にはほんとうに、真実溢れるね、力がこう、力を与えて下さる方がね、いらっしゃるってことは、ほんとうに感謝しています。だから前のほんとうに、今までのいろんな悩みっていうことは、ほんとうにね、結局、“自分でカベを作っていた”っていうふうにね、ひとつの悟りですかしら――“悟りを開いた”っていったらオカシイけど――」(第7回目)
「“自慢気に聞かせる”っていうふうなね、結局、むこうが取るんじゃないか、と思って――(中略)――自分で自重してるんです。そういうことでもって自分が“得意になっちゃいけないな”っていうふうなね、自分でも“有頂天になっちゃいけないな”っていうふうに、自分でスゴク、今んとこ自重してるわけなんです。」(第7回目)
「今のあたくしの心の中はほんとうに、なんていうのかしら、平安に満たされているっていうことはもう、確実だし、まあ、まわりのそういうことにもまどわされないっていうね、気持が最近こう、でてきましたね。“でてきた”っていうのはオカシイけれども、まあ、自分からそういう気持を作っていくわけですね。それが一番のあたくしの救いだと思うんですよね。」(第7回目)
「今までなんかもう、聖書なんか泥まみれに、砂ボコリの上にぺターンと置いたような調子だったけど、――(中略)――開いて読みますね、そうするとこう、なんかこう、力が湧いてきますね。」(第7回目)
「でも、こうね、あたくしは思うのよね、あまりにもね、その、それはね、こう、“神様、神様”っていうふうにね、こだわってしまっちゃいけないと思うんですよね。――(中略)――こだわってしまって、そういうのにもとづいて話をするから、ある寮生たちから反感の目で見られるシュウェスターたちもいると思うんですよね。――(中略)――そういうこともやっぱり学んでね、そういうことに結びついた生活をあたくしはしてゆきたい――(神様を)振り回すんじゃなくて。」(第7回目)
「いずれかはね、独立して、社会の荒波に向かっていかなくちゃならないんだからね。だけどもその、社会の荒波に向かっていくのにはね、やっぱりね、その、意志を強くしなくちゃいけないんだから、やっぱり何かを信仰しなくちゃいけないと思って、自分の心の支えとしてあの、こう研究しはじめたんですけど――だから、これからのあたくしの行動はもう、間違いないと思います。絶対にもう、意志強固にもってゆきたいとおもいます。」(第7回目)
「とにかく、あたくしの生活、とか、それからあたくしの今の気持は幸福だっていうことは、先生、どうぞよくおぼえていらっしゃって下さい。」(第7回目)

 という言葉を残して、彼女は去って行きました。抜粋が少々長くなりましたが、「自己へ、自己へ」と話題が集中していって、「自己」が変化し変容してゆく――つまり、以前の「自己体制」が崩壊して新しい「自己体制」ができあがってゆくと同時に、それをそのまま受け容れてゆく――過程の概要は、ある程度お判りいただけるのではないでしょうか?
 当面の目的と紙面との関係で、「自己が再体制化される」につれて、「現実を見る眼」も一段とたしかになってゆく過程を示す話題については、ほとんど割愛しましたけれども、抜粋のほうにかかげてある部分、例えば「“神様、神様”っていうふうにね、こだわってしまっちゃいけないと思うんですよね。」あたりの陳述を味わえば、その辺の一端をうかがい知ることができるのではないでしょうか? また、「自己を再体制化してゆく過程」は、別の言い方をすれば、「それまでは意識にのぼることを許されなかった“自己”や、あるいは、意識にのぼる場合にはゆがめられてしまっていた“自己”が、抑えられてしまうこともなければゆがめられてしまうこともなく、そのまま意識されるようになってゆく過程」なのですが、その劇的ないし印象的な過程もまた、このような抜粋では十分に提出することができません。しかし、少なくとも一端をうかがい知ることはできるのではないでしょうか? 「カウンセリング」という言葉で呼ばれている「錯雑した過程」の実態・真相は、このような抜粋では十分にお伝えできないことを、重ねておことわりしておきます。



四、「自己」とは?

 ところで、一般に「自己」という言葉で呼ばれている「何か」は、いったい何なのでしょうか? この「自己」という言葉は、いわゆる日常用語として使われておりますので、――ということは、その「意味」や「定義」をあらたまって詮索したり検討したりすることもなく、漠然と使っているし使われている、ということですが――一般にはきわめて理解しにくくなっているのではないでしょうか?
 このことは、多かれ少なかれ心理学の領域にもあてはまることで、この「自己」という言葉が心理学用語として登場してくるまでには、実に長い時間を必要としているのであります。筆者が知っている限りでは、この「自己」という言葉を心理学用語として確立しようと企てた最初の人は「プレスコット・レッキイ」ですが、しかし彼の見解と諸説が、一応一部の心理学者たちによって注目されるようになったのは、彼の没後十数年を経た後のことですし、ありていに言えば今日なお、レッキィの諸説と見解とは、心理学界において十分に認識され評価されているわけではありません。というより以上に、実は、この「自己」という言葉そのものが、心理学界の現状に即していえば、現在でも「心理学用語」として認められる状況になってはいない、といってよいでしょう。
 しかし、それにもかかわらず近年、この「自己」という言葉は、「心理学用語」として急速に、心理学の領域に登場してくるようになっていることは、事実なのであります。いうまでもなく、それは、「カウンセリング」とか「サイコセラピィ」とかいう言葉で呼ばれている活動の発展――というよりは、心理学界一般の見方・考え方に即していえば、「非指示的カウンセリング」とか「クライエント中心のサイコセラピィ」という言葉で特色づけられている活動の発展――とともに現実化している状況である、といってよいでしょう。

 前項に一例の抜粋をかかげておいたように、いわゆる「カウンセリング場面」における「クライエントの陳述・表明」は、「自己の再体制化」をめざして展開されてゆきます。そこで、その「陳述・表明」を素材として、逐語記録によって検討・考察するとき、次第に「あるひとつの考え方(仮説)」が、形作られるようになってきたのであります。端的に言えば、それは、「一般に“自分”という言葉で呼び慣れてしまっている“あるひとつの生命ある有機体”」が、その「有機体それ自体」の特徴なり傾向なりについて、「それはこれこれこのような特質をもつものである」というように、言葉で記述したり、あるいは言葉で規定したりする、その「記述」や「定義」――それが「自己」である、という考え方なのであります。
 例をあげて、少しく具体的に申し上げましょう。「自分は英語が得意(な人間)である」とか、「自分はどうも数学がニガテ(な人間)だ」とか、あるいは、「自分はどうしてこんなに気が利かない(人間な)のだろう!?」とか、「どうも自分は要領が悪い(人間な)ので困っちゃうんだ!!」というような言葉は、機にふれ折につけて、多くの人々の口にのぼっているのではないでしょうか? あるいは、口にこそしないけれども独りひそかに、声なき声で、このような言葉を発していることがあるのではないでしょうか? このような言葉はいずれも、「自分というもの」について、それがどのような特質のものであるかを語っているわけであります。このように、「自分」とか「自分というもの」、あるいは「“自分”という言葉で呼ばれているひとりの人間」の特質が、言葉で記述されたり、言葉で規定されている、その「記述」あるいはその「規定」が今日、「心理学用語」として使用されるようになってきている「自己」なのであります。つまりそれは、基本的に申し上げれば、「自己」とは「観念」であり「概念」である、ということであります。そこで、「自己」という言葉ではなく、「自己概念」という用語を使ったりもいたしますが、「自己」と言おうと「自己概念」と言おうとこれらの言葉はいずれも、「自分というものについて自分がどのように思っているかを、言葉を使って記述したもの」を意味しているのであります。前項にかかげた女性が、いかにしばしば「彼女自身」について語っていたかを、ここで思い出していただければと思いますが、それは一応それとして、もしもこの「自己とはすなわち観念もしくは概念である」ということを基本的に理解されるならば、前項の女性の話はもちろんのこと、日々の生活において接する多くの人々の話が、非常に違って聞こえてくるのではないでしょうか?

 「一般に“自分”という言葉で呼び慣れてしまっている“あるひとつの生命ある有機体”」と「自己」もしくは「自己概念」との関係は、意味論者の比喩(ひゆ)を借りて言えば「現地」と「地図」との関係に該当するのであります。「現地」はあくまでも「現地」であって「地図」ではありませんし、逆に、「地図」はどんなに詳しく描いてもしょせん「地図」以外の何ものでもなく、「現地」ではありません。しかし人間は、「現地」を「地図」によって象徴し表現しますし、逆に、「地図」によって「現地」をイメージすることができるのであります。それとまったく同じように、「一般に“自分”という言葉で呼び慣れてしまっている“あるひとつの生命ある有機体”」が、どのような傾向を持ち、あるいはどのような特質のものであるかは、「自己」によって象徴され表現されると同時に、逆に、「自己」によって前者を、イメージすることができるのであります。もちろん、「現地」を「地図」に描く場合には、正確に描こうとすればするほど、専門的な知識や技術が必要となってきますし、逆に、ある程度以上の訓練を経なければ、たとえ「地図」を見たとしても、それによって現地をイメージすることができないでしょうが、しかしそれは一応それとしても、実をいいますと「一般に“自分”という言葉で呼び慣れてしまっている“あるひとつの生命ある有機体”」と「自己」との関係は、「現地」と「地図」との関係で理解しきれるようなものではありません。といいますのは、「現地」や「地図」は比較的恒常な――なかなか変わらない――ものですが、「自己」や「“自己”によって象徴される有機体」は、不断に変化し流動しているからであります。もしもこのことが見落とされるならば、「実態」もしくは「真相」は、いちじるしくゆがめられてしまうでしょう。
 もっとも基本的かつ本質的なレベルにおいてこの辺のことを理解しようと思うならば、わたくしどもは、一応「新生児」――生れたばかりの赤ん坊――を想定してみるのが賢明でありましょう。人間の知識や技術は、今日なお、まことに乏しく貧弱でありますので「新生児のレベル」で物を言うことはぜんぜんできませんが、仮に「新生児のレベル」を推測して言葉をつづるならば、「新生児」には「自分」もなければもちろん、「自分を取り巻いている周囲の世界」もなく、すべてが「渾沌(こんとん)」でありましょう。このことは、成人のレベルにおいても、かなりの程度あてはまる事実なのですが――つまり、「成人の世界」もまた、今日なお依然として「渾沌」なのですが――そして「渾沌」なればこそ現実に、数限りない研究が行なわれているわけですが、それは一応それとして、この「渾沌とした世界」について「新生児」は、「乳児」から「幼児」へ、「幼児」から「児童」へと成長しながら、次第に「自分」と「他人」や、「自分」と「自分を取り巻く世界」とを、限りなく「分化」してゆくのであります。
 この「分化の過程」において、「自分というもの」もまた、限りなく「分化」しつづけてゆきます。ちょうど、「自分ではないもの」について「他人」が分化し、その「他人」が「母親」や「父親」、「オバァチャン」「オジィチャン」「オニィチャン」と分化してゆくように、「“自分”という言葉で呼ぶことのできるこのもの」は「いい子」「悪い子」に分化してゆくし、この「いい子」はさらに、「ちゃんとオシッコを教える子」「やたらに泣かない子」「親のいうことをよくきく子」「イタズラしない子」へと、また、「悪い子」は、「泣いてばかりいる子」「イタズラのはげしい子」「親のいうことをチットモきかない子」へと、限りなく分化してゆくのであります。これはつまり、「自己」もまた、本質的には「変化し分化してゆく過程」であるということ――別のいい方をすれば、しょせん「とらえる」ことのできないものである、ということですが、しかし、一瞬一瞬を便宜的に区切って語ろうとするならば、もちろん「語ることができるもの」なのであります。人間の世界すべてがそうであるように。

 一般的・通俗的なレベルでいえば、「自己」は、きわめてしばしば「ひとりの人間についてひとつ」ででもあるかのように思い込まれているようです。しかし、「ひとりの人間」は、それこそ数限りない「自己」を持っているのであります。「自分はあまりアタマがよくない(人間である)」「しかし、ヒトを欺くようなことはしない(人間である)」「学校の成績はあまりよくなかったが、運動神経はかなり発達していたほう(の人間)だ」「根性も人並み以上(にある人間)だ」「手早く仕事を片づけるのはニガテだが、しかし、ねばり強く着実にやってゆくほう(の人間)だ」というように。そして、言葉でつづれば個個バラバラなようなこれらの「諸自己」は、実際には相互に関連するひとつの「全体的な体制」をなしているのであります。この「体制」を「自己体制」といいますし、この「自己体制」を外から眺めて記述する場合には「自己構造」とか「自己の構造」とかいう言葉を使います。しかし、専門的なことは今の場合、別として、心理学的な観点からいうならば、「人間が成長する」ということは、この「自己体制」もしくは「自己構造」が変化し変容してゆく過程である、といってよいでしょう。
 「自己」もしくは「自己体制」(あるいは「自己構造」)が、どのようにしてできあがってくるか、という問題や、「一般に“自分”という言葉で呼び慣れてしまっている“あるひとつの生命ある有機体”」において、「自己」もしくは「自己体制」が、いったいどのような役割を果たしているか、という問題は、ありていにいえば今日なお、ハッキリしていない問題であります。が、一応の仮説として考えられている、というよりはむしろ、「カウンセリング」における「クライエントの話の内容」を手がかりとして仮説的に推測されるところを、この機会に少しく述べておきましょう。
 まず最初に、「自己」もしくは「自己体制」の形成に関する問題ですが、大づかみにいえばそれは、ふたつのタイプに分けられるのであります。ひとつは、自分が自分の直接経験を意識化することによって形成される「自己」もしくは「自己体制」ですし、今ひとつは、自分の直接経験とは無関係に、他人から与えられる概念的な定義づけによって形成される「自己」もしくは「自己体制」であります。
 例えば、多くの人がいるところで自分が思っていることを発言しようとすると、とたんに心臓がドキドキして、顔がカッカとほてってくるのを意識する人がいるとしましょう。もしもこの人が、自分のこのような状態を意識して「自分はなんという気の小さい人間であろう」と思い、「自分は気が小さい(人間である)」という定義づけを受け容れるならば、これは前者のタイプの「自己形成」になるわけであります。しかし、今仮に、ここにひとりの子供がいるとして、その子供にすれば少しく危険と思われるような何かをするように、大人からいいつけられたとしましょう。そして子供は、そこで、それをどのようにやったらもっとも安全で、しかも早くやれるかを発見しようとして考えていたとしましょう。と、とたんに大人から声がかかりました。「この意気地なしめ!! そんなことがこわくてやれないのか!!」と。もしもここで、その子供が、この「意気地なしめ」という言葉をそのまま受け容れて「ああ、自分は意気地なしなのだ」と思い込んだとすれば、これは、後者のタイプの「自己形成」である、といえるのであります。
 前項にかかげた女性が、「第三者は、あたくしは“しっかりしてる”って言うんですよね。ところがあたくしってのはスゴク意志が弱いんですよ。本当に意志が弱いんです」という話を、第四回目のときに語っておりました。もしも彼女が、第三者のいう「しっかりしてる」をそのまま受け容れるならば、彼女はそこで、「自分はしっかりした人間である」という「自己」を形成することができたわけでしょう。あえて推測すれば、このような話をするまでの段階においては、彼女は、そのような「自己」を持っていたともいえるでしょう。しかし今や、彼女は、そのような「自己」を持つことができなくなっているのであります。なぜならば、そのような「自己」は、彼女自身が直接に経験し意識し自覚している「事実」とは、まったく相反するからであります。彼女は、彼女自身の「経験的事実」に即して、「自分は意志が弱い(人間である)」という「自己」を形成したわけであります。

 ところで、このような例をかかげると、読者の中には、彼女が、「自分は意志が弱い(人間である)」という「自己」を形成することによって、一生「意志が弱い人間」として過ごさなければならなくなるのではないか、と心配する人があるかもしれません。そしてさらに、同じ第四回目において、「たしかにあたしはオッチョコチョイなんですよ。……自分でも認めています」について、あるいは彼女は、一生「オッチョコチョイ」で過ごすのではないか、と心配するかもしれません。がしかし、筆者の経験では、このような心配はまったく無用なのであります。なぜならば、すでに上述したように、「自己」もしくは「自己体制」は、決して固定的な「実体」ではなく、限りなく流動し変化している「観念」もしくは「概念」ですし、あるいは、絶えず再体制化されつつある「観念体系」もしくは「概念体系」であるからであります。そして、さらにいえば、例えば「意志が弱い」とか「オッチョコチョイである」という言葉が、もしもその人の「経験的事実」をもっとも正確に表現し記述しており、かつ、その人が、そのことをそのまま認めて受け容れることができるならば、そのような「自己」はきわめて速やかに解消してゆくからであります。
 このことは、一見するとまことに奇妙な、矛盾しているといえばまことに矛盾している、ように思われるかもしれません。しかし、実をいいますと、これは、まことに当たり前の現象なのであります。なぜならば、「自己」もしくは「自己体制」(あるいは「自己構造」)は、それを破壊し解消しようとする力が加われば加わるほどますます、強化されるからであります。他人からの場合はもちろんのこと、自分が自分に対しても、例えば、「お前はなんという意気地なしなのだ!! そんなことでどうするか。この際ひとつ、徹底的に直してやるぞ!!」という動きは、常識的には当然の、きわめて「教育的」な企てである、と思われるかもしれません。しかし、「事実」はまったく正反対なのであります。「イソップ物語」にある有名な物語――旅人の外套(がいとう)をはぎとる競争をした「北風」と「太陽」の物語――が、この辺のことをリーアルに描き出しております。なんとかして旅人の外套をはぎとろうとする「北風」は、いよいよはげしく吹きつけますが、吹きつければ吹きつけるほど旅人は、ますますしっかりと外套を身にまといつけますし、両手でガッチリと抑えつけます。これに反して太陽は、暖かい光を旅人の上にそそぎました。旅人は外套のボタンをはずし、ヒモをゆるめ、とうとう脱いでしまいました。「人間」と「自己」との関係が、この物語における「旅人」と「外套」との関係であることを理解されるならば、と思います。

 資料に即していえば、他人から与えられる概念的な定義づけ――例えば「ほんとうに(おまえは)いい子だねえ!!」とか、「この意気地なしめ!!」というような言い方――を受け容れることによって形成される「自己」は、心理学的には「投入された自己」と呼んでおりますが、その個人の「不適応」と密接な関連があることが見出されております。このような「自己」を保持する人は、判りやすい言葉でいえば「己にそむいて」振舞わなければならないからです。
 多かれ少なかれ同じことが、「理想的自己」もしくは「自己理想」――「自分はこれこれこのような人間であったらいいのに、と、自分が強く望んでいる自分」――についても言えるのであります。「理想的自己」を保持する人は、「有機体レベルにおける経験」が「自己」と喰い違うために、たえず緊張しておりますし、また、しばしば混乱に陥るからであります。
 一般的にいって、「自己」は、それがどのようにして形成されていようとも、なんらかの「価値」と結びついております。「結びついている」というよりはむしろ、「あたかも価値そのものででもあるかのようになっている」――これを「同一化」といいますが――といったほうが適切でしょう。もしもこのことを理解されるならば、「自己が変わらない」――ということは「人間が成長しない」ということですが――ということはすなわち、「自己が現に同一化されてしまっている価値」が保持されつづけていることであり、「自己が変わる」ということは「価値が放棄される」ことであり、また、今日、日本においてもかなり知られるようになってきている「自己実現」とはすなわち、その個人に即していえば「価値実現」と同義であることを、容易に理解することができるのではないでしょうか?
 そしてさらに、上述した「北風」的な考え方と方法は、事実上は「価値のはくだつ」であるが故に成功しないのに反し、「太陽」的な考え方と方法は、直接的に「価値のはくだつ」を企てることなく、ただ、旅人をして「価値」を固守する必要のない状況を経験させることにより、結果的には「価値を放棄する」ことになるゆえんをも、改めて理解することができるのではないでしょうか?


『自己の構造〜カウンセリングにおける人間像〜』 (友田不二男著 柏樹社 1969年)より一部抜粋。

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カウンセリングとは?[語録編]
―以前運営していた掲示板における私(管理人)の発言を集めたものです―


■受容とは?

僕はいまクリシュナムルティを読んでいるんですが、彼が言うには「人はみな、比較・相対の世界にいてしまう」のだそうです。他人と自分を比較せずにはいられないんです。「私は背が低い。あの人は背が高い」「私は頭が悪い。あの人は頭が良い」「私は○○が劣っている。あの人は優れている」「私は不幸だ。あの人は幸福だ」と。
ま、そうなってしまうのは、社会というものが比較・相対で成り立っているからで、社会に適応するため(=生きるため)にはそうならざるを得ないわけですが……。

「受容する」というのは、世間一般ではなんとなく、「自分の背の低さ・頭の悪さ・欠点・弱点・不幸を認めること・受け入れることなのだ!」と思われているようですが、本当にそうなんでしょうか?
そうではなく、本当は「他人と自分を比較するのをやめること」ではないでしょうか? 自分というのは(本来は)絶対の存在です。自分というのは(本来は)超越した存在です。その絶対のところ、超越したところこそ、本来の自分です(仏教的に表現すると)。
背が低いとか高いとか、頭が良いとか悪いとか、幸福だとか不幸だとか、そんなのは本当の自分ではありません。本当の自分はどんなに比較してもされても、決して傷つくことはありません。増えもしないし減りもしません。
そこに気が付くこと。それが真の意味での「受容」だと、僕は思ってます。僕にとっての「受容」は、「=超越」でもあり「=絶対」でもあるんです。
(2004/5/12)



■魂と輪廻転生について


「魂」とか「輪廻転生」とか、僕はそっちの専門家ではないんですが、『生きがいの創造』(飯田史彦著 PHP研究所)という本には強い影響を受けています。その本によれば、人は生まれる前に自分の人生の計画を立ててから生まれてくるそうです。この計画が、いわゆる「運命」です。ですから、不幸な人・不運な人・苦労する人というのは、実際は「計画通りの人生を歩んでる人」なんですね。
どうしてわざわざ過酷で厳しい運命を用意するのかというと、「魂の成長のため」なんだそうです。だとすると、不幸な人・不運な人・障害を持って生まれてくる人というのは、じつはとっても魂のレベルが高い人なんですね。ちょっとの障害や問題では、さらに魂を磨くことができないほどの、素晴らしい魂の持ち主なんです。
まるこさんも、その一人ではないでしょうか? 僕はそう思いますが……。

自分の不幸や不運を呪ったり嘆いたりする必要は、本当はないんです。なぜならそれは、自分が「自分のために」計画したことなんですから。
人間は、たくさんの試練を味わえば味わうほど、真の意味での成長が訪れてくるのではないでしょうか? 僕はそう信じます。
(2004/5/11)



■人はなぜ治るのか?

カウンセリングとかセラピーの世界では、昔から「人はなぜ変わるのか? なぜ治るのか?」という、未だに解けない大問題があります。僕は最近、「それは『人格の力』によるのではなかろうか?」と思っています。もちろん『人格の力』と呼んだところで、それが何なのかはよくわかってないのですが……。
僕の師匠でもあるカウンセラーの先生は、こう言います。「資格がなくても治せる人は治せるし、資格があっても治せない人は治せない。医師の免許などなくても、治せる人なら医者なんだ。要は『人』なんだよ」と。
風さんの体験記を呼んでいるとますますそんな気がしてきて、「人の力ってすごいなあ」と、つくづく思ってしまいます。
(2004/5/06)



■カウンセラーに向いてる人とは?

ただのアドバイスなら誰でも簡単にできますが、「適切な」アドバイスとなると専門家やプロでもなかなかできるものではありません。できないのが当たり前です(笑)。
そもそも、どんなアドバイスが適切でどんなアドバイスが不適切かは、アドバイスを求める人(クライエント)にしか、わからないですからね。僕はそういう立場です。

あなたが「うまくできないもどかしさを感じられる」人間なら、それはカウンセラーに向いている証拠です。逆に、自分の行為や相手の反応に鈍感な人間だったら、カウンセラーには向いてないでしょう。
僕だって、うまくいかないもどかしさや自分の未熟さを、いつも感じているんですよ。ただ、それは「自分にはまだまだ成長・発展の可能性があるのだ!」という意味でもありますから、必ずしも否定的には思っていませんが。
(2004/5/06)



■カウンセリングは信用できない?

僕自身もうつ病でクリニックに通院していたとき、そこのカウンセラーに失望した経験があります。まるでベルトコンベアー式に次々と運ばれてくる患者を処置する作業員のように、そのカウンセラーが見えました。(詳細は『私とカウンセリング』という手記に記しています)。
精神科クリニックに勤務するということは、よほどの経験と実力を持ってるはず(?)なんですが、実際はその程度です。
僕の場合はそんな経験もあり、「自分がやらねば……」という思いもあって、カウンセラーを志すようになりました。

いまの日本の現状では、「本当に信頼できる、自分の役に立つカウンセラーに出会えるのは、かなりの強運の持ち主に限られる」のではないでしょうか? とても残念なことですが……。
(2004/5/04)



■多重人格とは?

以前、カウンセリング講座の中で、僕たちの師である友田先生にある人が、「多重人格って何ですか?」と質問したことがありました。
先生は一言、「皆さんもそうでしょ?」と応えました(笑)。
友田先生の持論は、「オギャーと生まれたときには、人間はすでに700歳。自己というのは3000人以上いるのだ」というもので、口癖のようによく言ってます。
だとすると、「私の人格はこれ一つだけだ」という思い方のほうがじつは錯覚で、真相は「誰もが多重人格者である。ただ、それに気が付かないで錯覚しているので、健全でいられるのだ」となるのかもしれませんね。
いずれにせよ、もっともっと「人間というもの」に対する研究が深まっていかないと、この問題はハッキリしないのではないでしょうか? 僕はそう思ってます。
(2004/3/16)



■既成概念へのとらわれ

「既成概念にとらわれている現代人」という意味なら、これは一種の社会現象・社会問題と言ってもいいでしょうね。ただ、僕自身にこの問いを発してみると「他人事ではないよな〜(笑)」というのが率直な印象です。
まずは「自分自身がいかに概念に汚染されているか」を自覚することが、何よりも肝要だと思います。そういう「気づき」にカウンセリングという教育法が少しでも役に立てればいいな、もっとたくさんの人に「気づき」があればいいな……とも思います。

この問題は非常に根深くて、根本的な原因は「現代社会の基盤となっている価値観(=お金)」と「学校教育」ではないでしょうか。
『カウンセラー度チェック』の中でも出題したんですが、僕の師である友田先生は「学校の先生ってのは、科学教の信者をこしらえている牧師なんだよ」と、大真面目に言ってます(笑)。
ま、小学校から大学まで、毎日毎日概念を植え付けられたならば、歪んだ人間が大量生産されるのはむしろ当然かもしれませんね。
(2004/1/21)



■無・空について

「どんなにひどい状態でも」とありますが、そもそも「ひどい状態」とか「良い状態」なんてのは、自分の「我」が勝手にそういうレッテルを貼り付けてるだけで、本当は「良いこと」も「悪いこと」も無いんですよね。「我」を超えたところから観るなら。
そういう観点(=無我の立場)から観ると、自分だけでなく「宇宙全体」をあるがままに肯定せざるを得ない。すべてが、文字通り「すべて」の存在と出来事が必要不可欠である……となります。
これを哲学的に煎じ詰めると「一切皆空」、「本来無一物」となります。いわゆる仏教で言う「無」であり「空」です。
これを知的にではなく「全体的に」理解することが、「最初の悟り」なんですよね。あえて「最初の」と付けたのは、仏教徒の場合、ここからが本当の仏道への入門であり、ここから本格的な修行をスタートさせるからです。

ですから、「ハブさんも悟ったんだな」としか、僕には思えません。ま、反対意見や批判的な意見もあるでしょうが、悟りの体験は悟ってない人にはわからないものですよ。
「わかってほしい」というハブさんの気持ちは理解できますが、わからない人に対して「わからせよう」としても、ある程度の限界があるのではないでしょうか?
わかってもらえなくても、伝わらなくてもいいんです。その、「わかってもらえない」、「伝わらない」ことも、意味のある必要な出来事なんですから(笑)。
(2004/1/18)



■癒す側と癒される側

世間一般では「医者が患者を治す」とか「先生が生徒を教育する」とか「カウンセラーがクライエントを癒す」という見方が普通ですが、じつはこれ大間違いじゃないか? と僕たちは思ってますし、主張もしています。
「治る」「学ぶ」「癒す」というような言葉で呼ばれる現象は、どれも本人の中で「自然に」起こる現象であり、それが自然に起こるような環境や関係を作って本人をサポートするのが、「医者」や「先生」や「カウンセラー」の役割ではないでしょうか?

ですから、「癒す側と癒される側が分かれる」という問題はカウンセリングや心理療法の現場だけでなく、じつは病院でも学校でも家庭でも会社でも起こっているんです。いわば社会現象です。
僕に言わせれば、そもそも「癒す側・治す側・教える側がいる」なんてのは幻想です。「癒す」のも本人だし「癒される」のも本人なんですから。
(2003/10/20)



■うつ状態のときは

ええ、ええ、僕も経験者です。自分を責めずにはいられないんですよね。そうするとうつ状態がひどくなり、ますます自分を責めてしまう……。この悪循環が際限なく続くんですよね。言葉では表現できないほどの苦痛ですよね。

うつというのは、自分の力ではどうにもならないものです。僕の場合はうつ状態に入ってしまったら、なにもかも諦めて一日中ゴロゴロしながらテレビ見てますよ。一週間くらい風呂も入らなければ歯も磨きません(笑)。だって、何もやる気が起きないんですから。
あかねぐもさんと違うのは、そういう自分を「しょうがないよ。うつなんだから」と開き直って(?)認めることができる点です。
そういう態度で100%うつ状態に浸ってしまえば、自分がうつ状態であることを気にしなくなるし、自分がうつ状態であることも忘れてしまいます。そうすると知らないうちに治ってしまうんですよね。
(2003/10/7)



■カウンセラーの資格を得るには?

結論から言うと、学歴はまったく必要ありません。なぜなら、クライエントさんから「私はもう大丈夫です。おかげですっかり良くなりました。ありがとうございました。」と言ってもらえる人がカウンセラーだからです。学歴がなくても、仮に資格がなくても、カウンセリングが「できる人」なら誰でもカウンセラーなんです。
しかし現実の社会では、いくら「私はカウンセラーです。私はカウンセリングできます!」と声高に叫んでも、資格がなければ認めてもらえないし信用もされません。そういう意味では資格も必要です。

カウンセラーの資格というのは、じつはたくさんあるんです。外国と違って日本では、カウンセラーという国家資格はないんです。いろんな団体がそれぞれ独自の基準とやり方で資格を発行しているのが現状です。
主な団体(=資格)を挙げると、「臨床心理士」「産業カウンセラー」「メンタルヘルス協会」などがあります。(ちなみに僕は(財)日本カウンセリング・センターという団体で資格を得ました)。
正確な数はわかりませんが、日本には100以上の団体と資格があるのではないでしょうか? 中には資格を得るのに高学歴を要する団体もあるので、あとはご自分で調べてみてください。
(2003/10/07)



■人間の成長とは?(2)

人間の成長(=治癒)というのは「自然に」起こるものであって、決して「人為的に」もたらされるものではありません。同じうつ病でも1年で治る人もいれば、5年、10年とかかる人もいます。長くかかる人の場合は、それがその人の「自然な」成長の速度かもしれませんし、あるいは「不自然な・人為的な」行為によって、自然な成長が阻害されている場合もあるでしょう。

いずれにせよ、そういう「自分の性」や「自分の宿命」を受け入れるのは、容易なことではありません。それはとてつもなく厳しくて切なくて困難な仕事です。自分という人間が「自分が想い描いているのとは実際は違う人間だったのだ」と認めるのは、とてもとてもつらいことです。
僕は思うのですが、結局最終的には、人は自分の性や自分の宿命を「泣く」しかないのです。それしかできないのです。
そういう意味で、僕たちカウンセラーは無力です。カウンセラーにできるのは、せいぜいクライエントさんの「涙」や「悲しみ」を理解し、受け入れることぐらいなんですから……。



■人間の成長とは?(1)

僕もうつ病経験者です。そのつらさや苦しさのほどは自分にしかわからない、とうてい他人には伝えられないと、僕は当時思ってました。にゅうさんもそうじゃないですか?
それなのに、「薬はやめたほうがいい」などと無責任なことを他人が言えるわけありません。もちろん、やめたいならやめるのも自由ですが、どちらにせよ「本人の意思」が最も尊重されるべきだと僕は思います。医者や専門家の意見ではなく。

僕は「人生には、その人の成長のために、必要なことが必要なときに起こるのだ」という考え方を固く信じてます。僕自身の経験からもそれは言えます。
薬が必要なときには薬が、入院が必要なときには入院が、カウンセラーが必要なときにはカウンセラーが、そして「うつ病体験」が必要なときには「うつ病」になることが、人生からやって来ているのではないでしょうか?

もうひとつ僕は「人間は根底的・本質的に、魂の(スピリチュアルな、霊的レベルの)成長を欲している」という考え方を信じてます。病気や事故や別離などの出来事は、魂(のレベルの自己)が成長のために計画し実行しているのだと、僕は思ってます。
高いレベルの魂は、より高くて大きくて困難な課題を用意します。そうしないと成長できないからです。ですから、不幸な境遇にある人ほど、苦労と苦悩を重ねている人ほど、じつは高いレベルの魂の持ち主なんです。本当は最も尊敬されるべき人物なんです。
医者と患者だったら患者のほうが、先生と生徒だったら生徒のほうが、親と子供だったら子供のほうが、カウンセラーとクライエントだったらクライエントのほうが、本当は尊敬されるべきなんです。
ところが現実社会では逆に、エリートコースをスイスイ登って行った人が指導者的な立場(医者・弁護士・官僚・教師・親・カウンセラーなど)になってるケースが多いんですよね。これが現代の矛盾と不幸のひとつだと、僕は考えてます。
(2003/9/28)



■カウンセリングにおける基本思想(2)

まあ、それに近いですね。病気を抱えている本人としては「早く治したい!」という一心なんでしょうが、実際には病気になることで得られるメリットが必ずあるんですよ。
例えば「登校拒否」の場合、本人は「学校に行かなくちゃ!」と強く思っているのにもかかわらず、玄関を出ようとすると急に腹痛に襲われて動けなくなってしまう……というようなケースがあります。
この場合のメリットは、もちろん「学校に行かないで済む」ということですね。学校に行かないことによって何が得られるかというと、「身の安全が保障される」んです。つまり登校拒否になる人は、学校に身を置くことで「命の危険」を感じているんですね。

僕は「人間ってのは、本当にうまくできてるなあ! 絶妙だなあ!」と思ってます。「命」が危機を感じると、自動的に「命」のほうが主導権を握って、病気や障害を起こしてくれるのですから!
もっとも、心の病を抱えている大半の人が、この「命の自動的な働き(=病気)」に困ってるわけですから、ありがた迷惑なんでしょうが……。

『北風と太陽』という童話をご存知ですか? 自分の意識や意思のレベルで、いくら病気を退治しようとがんばったところで、相手(病気=命の働き)をますます強固にしてしまうのがオチです。反対に、もしも自分が相手(病気=命の働き)を受け入れ、愛し、感謝できたら、自然に消えてくれるのです。
理想的なカウンセラーというのは、『北風』のように病気を退治しようとするのではなく、『太陽』のように病気も含めたその人の全人格を温かく受け入れ、無条件に肯定できる人なのです。
このような態度を示すカウンセラーとの接触の過程において、クライエントのほうにも病気や自分自身に対する態度が少しづつ変化していきます。それが治療につながっていくのです。

そんなわけで、僕は心の病を「悪いもの」だとは思っていません。むしろ、「人間は成長の過程において必ず何かの壁にぶち当たるものだ」と思ってますし、「その壁が病気となって現われているのだ」、「壁が無ければ成長も無いのだ」と思ってます。
言いかたを換えると、「心の病を抱えている人は、それだけ大きく飛躍する可能性を秘めている、素晴らしい才能を持っている人なのだ!」ということです。

これは僕の持論なんですが、心の病になる人は、その人にとっての自然な成長の過程で病気になることが「必要だから」なっているのです。
それなのに、本人の意思(命のレベルでの)を無視して病気を治してしまうことが、本当に良いことなんでしょうか? それはその人の成長の過程を止めてしまうことになるのではないでしょうか? あるいは「人権侵害」になるのではないでしょうか?

もっとも、どんな名医でも本人の意思(命のレベルでの)を無視して病気を治してしまうなんて、できるはずがないと僕は確信してますが。そんなことができたら神ですよ(笑)。
現に、その証拠に、何年も何十年も精神病院に通ったり入院しながら、いっこうに治らない人がたくさんいるではないですか! この現象は僕に言わせれば決して不思議なことではなく、むしろ当然のことなんですけどねえ……。
(2003/9/24)



■カウンセリングにおける基本思想(1)

カウンセリングにおける最も重要な基本的な考え方・人間観を申しますと、心の病も体の病も、それを治す力は「その人自身が持っている」というものです。
その力がどういうものなのか、実際のところまだハッキリしてないのですが、私たちはそれを「自然治癒力」とか「自己治癒力」とか「生命力」と呼んでいます。

ですから、カウンセリングが目指しているのは、「人間が本来持っている『その力』が開花し、十分に発揮できるようにサポートすること」であって、決して「治すこと」ではないんですよね。
言い換えれば、「カウンセラーがクライエントを治すことなど絶対に有り得ない」し、「治すことができるのはクライエント本人だけである」ということです。
ついでに言うと、これは心の病だけでなく体の病にも当てはまると僕は思ってます。どんな名医がメスを振るっても、患者のほうに「生命力」がなければ、治ることなど有り得ないのではないでしょうか?

さて、そうすると次の問題は「いったいどのようなサポートをすれば、クライエントの中に眠っている『治る力』が働き出すのか?」ということが焦点になります。
そこで様々な臨床データを念入りに調べてみると、「カウンセラーとクライエントとの『ある種の特別な関係』が重要なのではないか?」という仮説が浮かんできます。
この関係(=援助的な関係)を作るために、カウンセリングの技法(受容とか共感的理解とか)が重要になってくるのです。

とまあ、ざっと簡単に説明しましたが、これはあくまでも私たち(クライエント中心療法と言います)の考え方です。他の流派のカウンセリングや他の心理療法では、まったく違う考え方や理論を主張している場合もあるので、その点は誤解しないでください。
(2003/9/23)



■カウンセリングがうまくいかない?

カウンセリングがうまくいかないのは、べつに珍しいことではありません(笑)。そういう場合は、カウンセラーの力量やカウンセラーの人格もかなり影響している場合がほとんどですが……。

「私の歩み寄りが足りない」のも「ついついこっちが気を使ってしまう」のも、じつは「私」が悪いわけではなく、また「カウンセラー」が悪いわけでもありません。本当は「二人の関係」がイマイチなんですよね。
率直に、膝を交えて話し合えるような関係が、今のところできてないのではないでしょうか? 僕はそう思います。
(2003/8/23)



■易経について

『易経』に出会ったのは、僕が世話になっている日本カウンセリング・センターの『易経とカウンセリング』という講座に参加したのがきっかけです。
最初は「易とカウンセリングと何が関係あるんだ?」と思っていたんですが、あるとき突然、ユングの言う共時性と易が結びついて、「あっ!」と思って納得できました。
あとでよく調べてみたら、ユングは『易経』をヒントに『共時性』という概念を生み出していたんですよね(笑)。
そんなことも知らなかったくらいですから、僕もド素人ですよ。

何かの本をおすすめできるほどに勉強しているわけではなんですが、僕が読んだ数少ない本の中では、『「易」心理学入門−易・ユング・共時性−』(定方昭夫著 柏樹社)がおもしろかったです。「入門書」としてはいいのではないでしょうか?
(2003/7/26)



■神について

『ソフィーの世界』という小説を読んだことありますか? 私たちが「神」とか「高次元の存在」とか呼んでいるものは、たとえるなら「小説の主人公にとっての作家」であり、「キャンバスに描かれた人物にとっての画家」であり、「マンガのキャラクターにとっての漫画家」のようなものではないでしょうか?
それが存在するのは確かでしょうし、また、ときには感じることができるのだと、僕もそう思ってます。
(2003/4/29)



■幸せとは?

『地球村』の高木さんって知ってます? 「幸せ」について考えるとき、僕は彼の言葉を思い出します。高木さん曰く、
「お金、地位、名誉、豪邸、高級車、グルメ……これらは「幸せのようなもの」ではないでしょうか? なぜなら、これらを手に入れたときの幸福感は、一瞬で終わってしまうからです。これに対し、わかち合い、助け合い、一家だんらん……これはどうですか? これが「本当の幸せ」ではないでしょうか?
「幸せ」って、じつはとっても簡単だったんです。お金も学歴も技能も要りません。家に帰って実行すればいいんです(笑)。反対に、「幸せのようなもの」を手に入れるのは、とてもとても難しい。東大に入って、エリート官僚になって、さらに出世を目指していく・・・。これは競争の連続です。最後まで勝ち残る確立はとても低くて大変です。ま、皆さんの頭のレベルでは、まず無理でしょうね(笑)。」

……とまあ、こんな話をします。
こういう話って、一般の人・普通の人でも、深くうなずけるんじゃないでしょうか? 「確かにそうだ。でも・・・」という反論は、世間一般の常識や価値観にとらわれている「アタマ」がやることです。誰だって「心では」、何が本当の幸せか、教えられなくても知っているはずです。誰だって「心では」、それを切望しているはずです。
『おおきな木』という物語に人が感動するのは、「心が」それを読むからです。「心が」本当のことを知っているからです。たくさんの人があの物語に感動するなら、たくさんの人が「幸せ」になれるはずです。
(2001/12/11)



■人が変わるということ

なぜでしょうね? 僕にもわかりません。でも、自分が変わるのは決して不思議なことではないんですよ。むしろ、「人が自然に変わる」ということがなかったら、カウンセラーなんてやってられません(笑)。でもまあ、不思議に思うのも無理ないでしょう。実際、不思議ですからね。

人間ってのは、自然と同じです。自然というのは日々刻々変化してるでしょう? ま、1日だと変化に気が付きにくいかもしれませんが、1年というスパンで見れば、春、夏、秋、冬と、大きく変化していることがわかります。
また、時にはどしゃぶり雨、時にはカミナリ、時には台風も来ます。人間も同じです。心地よい晴天ばかりではありません。

とはいっても、「(気持ちが)どしゃぶりやカミナリになっている自分は嫌だ!」「いつも晴天でいたい!」と思ってしまうのも人間です。そう思ってしまうのは、しかたがないことだと僕は思っています。仏教の世界では、そう思ってしまう未熟な心を「煩悩」などと呼んでますけどね・・・。
(2002/12/02)



■症状があるという意味

対人恐怖症も、鬱も、PDも、今のsaraさんにとって必要だから起こっているんです。自分自身を守るために起こっているんです。僕は思うんですが、それらの症状がなかったら、もっと大変なこと(命を落とすとか)に、なってしまうでしょう。それらの症状は、(今の)saraさんが生きるために必要なんです。信じられないでしょうけど・・・。
そして同時に、saraさんの成長のためでもあるんです。人間は皆、自分が成長するときには、目の前の高い壁をのり超えていくんです。その壁がなかったら、のり超えようがないでしょう?(笑) 対人恐怖症や鬱やPDは、いわば壁なんですよ。言いかたを変えると、「今のsaraさんは成長する必要がある」ということです。
対人恐怖症や鬱やPDがいかに大切なものか、(頭では)わかってもらえたでしょうか?

とは言うものの、気持ちではそんなもの肯定できませんよね。そしてまた、自分ひとりでは、こんなに大きな壁をのり超えられるような気もしないでしょう。
ですから、それを手助けするのがカウンセラーなんです。カウンセラーは、あくまでもサポート役です。壁をのり超えるのは自分自身なんです。
そして、その力(生命力・自己治癒力)は自分の中に必ず内在していると、人間は皆その力を持っていると、僕は自信を持って言えます。ただ、今はそれが表面に現れていない、どこかに隠れているだけなんです。
(2002/12/02)



■カウンセラーになるということ

一口に「カウンセラーになる」と言っても二通りの意味があるということを、まず知っておいてください。
一つは「カウンセラーの資格を取る」ということ。もう一つは「他人の役に立てるような人間に自分がなる」ということです。
資格に関して言うと、現在カウンセラーの国家資格は無く、いろんな団体が独自の資格を発行しています。臨床心理士のように、取るのはかなり大変で難しいものもありますが、中には割と簡単に(半年ぐらい講座に通って資格試験をパスすればOK)取れる資格もあります。ですから、難しいかどうかは、どの資格を目指すかによって違うんですよね。
もう一つの「他人の役に立てるような人間に自分がなる」ほうは、とてもとても大変で難しいですね。こちらを目指すとなると、一生涯勉強し続けないとダメないんじゃないでしょうか?
ま、僕の場合は「自分がよりよいカウンセラーになるために、もっともっと自分が人間として成長するために、勉強し続けること」は好きなので、楽しみながらやっていますが……。
(2002/12/2)



■本当は誰もが天才?

とても克明に詳細に正確に、そのときの状況や相手の表情、そして自分の気持ちを表現してますね。「すごいなあ」と思いました。驚きました。作家や小説家並みの観察力と感受性だなあ、と……。
僕は思うんです。たとえ世間では低く評価されている人でも、必ず何かひとつ、その人だけの才能とか資質を持っていると。誰もがそうであると。
そして、その力が目覚めるように、開花できるようにサポートするのがカウンセリングだと。
Sさんの中にも、何かが眠っているのではないでしょうか? いつの日か、「それ」が眠りからさめて、活動できるようになるといいですね。
(2002/7/30)



■カウンセリングの真髄とは?

「人間は真空において変化し成長する」という考え方は、じつは新しいものではなく、東洋思想(とくに禅仏教)で言われていることなんです。仏教ではそれを「無」とか「空」とか言って、ひとりで瞑想修行したりしますよね。
カウンセリングでも同じく、「クライエントはひとりぼっちの状態で、あるいは真空中で変化し成長する」と、僕たちは考えています。

「それじゃあ、カウンセラーの役割は何なのか? カウンセラーがいたら、ひとりにも真空にもなれないではないか?」と思うかもしれません。ですが、人間は自分ひとりでいるとき、実際には(心理的には)ひとりにはなれないものです。
ああすればよかったかなあ……いや、こうすべきだった! とか、頭の中にいろんな思いや考えが浮かんでしまう。「自己3000人」なんて言葉もあるんですが、一人の人間の中にはたくさんの自己がいるんです。それら複数の自己が、まったく違う価値観を持ってるからやっかいです。衝突して葛藤が生まれる。で、思い悩んでしまう……。

では、カウンセラーの役割とは何なのでしょうか? わかりやすく言うと「スポンジのようなもの」だと思ってください。つまり、クライエントさんのたくさんの自己を、すべて吸収してしまうのがカウンセラーなんです。(専門用語でこれを「受容」とか「共感的理解」とか言いますが)。
クライエントさんは自分の中のたくさんの自己を、カウンセラーにいったん預けてしまうわけです。そうすればひとりぼっち、もしくは真空になれるのです。これが「カウンセリングの真髄」だと、僕たちは考えています。
(2002/7/23)



■病気は医者が作る?

こういう言い方もあるんですよ。「病気は医者が作る」って。現に○○症とかなんとか、新しい名前の病気がどんどん増えてるでしょ? 「パニック障害」だって、10年前にはなかったと思います。
どうしてお医者さんが「病気」を作るのかというと、新たに「病気」を作るとお客さんが増えて、儲けが増えるからです。いや、新しい病気を作らないと、お客さんがどんどん減ってしまうので、お医者さんとしては「そうせざるを得ない」というのが本当でしょうか?
これは冗談とかギャグではなく、大真面目に本当のことを僕は言ってるんですよ。
○○症とか××障害だとか、そんなのは「表面的なこと」ではないでしょうか? そんなことに人間の価値が左右されるのでしょうか? 誰だって「命のレベル」で言えば、貴重な、大切な、たったひとつの存在なのではないでしょうか? 命の世界に「大切な命」と「そうでない命」とがあるのでしょうか? 本当はみんな「同じ」なのではないでしょうか?
このことが、最も大切な、そして唯一の真実だと、僕は思っています。
(2002/5/28)



■クライエントはすごい人?

「マイナス思考がカウンセラーに伝染(?)する」という話は、今のところ一度も聞いたことがありません。
そもそもカウンセラーというのは、クライエント自身に内在する(肯定的な)力を「信頼できる人」を指すわけですから、カウンセラーがマイナス思考だったら、カウンセリング自体が成り立たないように思われます。

クライエントの方々と接触しているときの僕の経験を話しますが、僕はクライエントさんのことを「弱っている人・困っている人・ダメな人」だなんて、とても思えないんです。反対に、「この人は自分の人生と格闘している、自分の人生に挑戦している、勇気ある人だなあ。立派な人だなあ。すごいなあ……」と、むしろ自分のほうが恥ずかしくなってしまうくらいです。クライエントさんに対して肯定的な感情を持てるからこそ、この仕事が、話し合うのが好きなんです。そういう内的経験をしている僕がマイナス思考になってしまうなんて、想像もできません。
(2002/5/20)



■人間に優劣はない?

僕がカウンセリングで学んだことのひとつは、人間は(=自分は)あまりにも表面的なところだけで、他人を評価・判断しているのではないか? ということです。
以前の自分は、職業・年齢・性別・肩書き・学歴・年収等々……で、他人も自分も価値付けていました。ですから、当然のことですが、自分も他人も、いや人間というものが嫌いでした。
でもいまは違います。人間は誰でも、その存在自体に意味と価値があるのではないでしょうか? どんな職業でも、どんな過去を持った人でも、「命のレベル」で言えばみんな同じ、ではないでしょうか? 人間の命に優劣があるんでしょうか?
そこのところ、「その人の存在自体」を受け止め、触れ合うことのできる人のことを「カウンセラー」と呼びたい、と僕は思っています。
(2002/2/22)



■私のカウンセリング体験

僕も日本カウンセリング・センターの講座に通い始める1ヵ月ほど前に、一度だけ面接を受けています。そのときのカウンセラーが、山口先生でした。「カウンセリングって、どういうものなんだろ?」という軽い好奇心が半分、あとの半分はとっても重い悩みを抱えていたのですが……。
面接終了後、気分がガラリと変わると同時に体が軽くなり、全身のあらゆる細胞にエネルギーが満ち溢れ、フワフワと中を浮いてるような感覚になりました。自分の変化に本当に驚きました。あの体験は、いまだに忘れられません。
(2001/12/15)



■神秘的宇宙体験?

僕もそれに似た経験を、過去に一度だけしています。「自分が・俺が」という意識が消え、この宇宙と一体になって溶け込んでしまったような感覚です。そこではもう、「自分」というものはありません。自分も、他人も、草や木も、昆虫や動物も、地球も、すべてが一体なんです。すごい恍惚感、エクスタシーでした。
で、再び元の世界・意識に戻ったんですが、当時は自分が何を経験したのか意味がわからず、「俺は気が狂ってしまったのか!? 精神病院に行かなきゃダメか?」と真剣に悩みました。今では笑い話ですが(笑)。
(2001/11/13)



■カウンセリングを学ぶ理由

僕がカウンセリングを勉強している理由のひとつは、「自分らしく」生きるのをやめ、「自分を」生きること。より自然に、より素直に、より生き生きと生きること。そういうことができるような人間になりたいからなんです。
(2001/9/08)

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